舊唐書卷五十六
(前巻0055に続く后妃伝。本文冒頭に篇名の行がなく底本から篇名を確定できないため、巻番号のみを見出しとする。玄宗以降の后妃を記す。)
玄宗――元獻皇后楊氏
- 弘農華陰の人、曾祖楊士達は隋の納言(則天の母族の縁で鄭王を追封)、父楊知慶は左千牛将軍。景雲元年8月に太子(後の玄宗)宮に入った。太平公主が東宮を忌む政情下、身重であった楊氏の子(後の粛宗)が禍を招くことを恐れた太子は張説に堕胎薬を託し、太子自ら煎じたが夢に神人が鼎を覆す夢を三度見て思いとどまり、太平公主誅殺後に無事出産した。正妃王氏に子がなかったため楊氏は身分上肅宗の実母と名乗れず、王妃が我が子のように育てた。開元中、忠王(肅宗)妃となり甯親公主を生み、公主は張説の子張垍に嫁いだ。
- 開元17年に薨じ細柳原に葬られ、玄宗は張説に墓誌銘を撰させた。至徳2載5月、玄宗は蜀にあって「妃を追冊して元獻太后とする」旨の誥を発した。宝応2年正月、泰陵に祔葬された。
肅宗――張皇后
- 南陽西鄂の人(後に昭応に移住)。祖母竇氏は玄宗の母昭成皇太后の妹で、玄宗を養育した縁で鄧国夫人に封じられた。天宝中に太子(粛宗)良娣となる。安禄山の乱で玄宗が蜀へ避難する際、良娣は太子の靈武行を援助し、道中では自ら太子の前に立って警護を申し出るなど機転に富んだ。靈武で出産後わずか3日で戦士の衣を縫うなど困難を分かち合った。肅宗即位後に淑妃、乾元元年4月に皇后となった。宦官李輔國と結んで権を専らにし、建寧王倓を讒言で死に至らしめたため、太子(後の代宗)は常に危惧しつつ恭遜に処した。生んだ興王佋・定王侗はいずれも夭折または幼少で儲位への影響はなかった。
- 宝応元年4月、肅宗の危篤に乗じ皇后は宦官朱輝光らと越王係の擁立を謀ったが、程元振・李輔国がこれを察知し太子を保護、越王一派を捕らえた。まもなく肅宗が崩じると太子が監国となり、皇后は別殿に移され幽殺された。関係者(馬英俊・許靈素・申大芝ら)も処罰された。
肅宗――韋妃
- 父韋元珪は兗州都督。忠王時代の孺人から太子妃となり兗王僴・絳王佺・永和公主・永穆公主を生んだ。天宝中、宰相李林甫が太子を陥れる柳勣の獄で妃の兄韋堅が連座して死を賜り、太子は保身のため妃との離婚を上表し許された。妃は出家し尼となったが、長安陥落で賊に囚われ、至徳2載に京城で薨じた。
肅宗――章敬皇后吳氏
- 父の罪で掖庭に没入されていたところ、開元23年、玄宗が忠王邸を訪れ侍女のいない王を見て高力士に選ばせた宮人の一人であった。翌年、代宗を生んだ。開元28年に薨じ春明門外に葬られた。代宗即位後、宰臣郭子儀らの上表により章敬皇后と追謚され(諡法「敬慎高明曰章」等に基づく)、代宗2年3月建陵に祔葬された。改葬時、遺体は生前のままの姿で衣は赭黄色であったため瑞祥とされた。父呉令珪は太尉を追贈され、兄呉漵・呉澄・呉湊はいずれも開府儀同三司に加えられた(詳細は「外戚伝」)。
代宗――睿真皇后沈氏
- 呉興の名族の出、父沈易直は秘書監。開元末に東宮の広平王(後の代宗)に賜わされ、天宝元年に徳宗を生んだ。安禄山の乱で東都に取り残され掖庭に囚われ、代宗の東都奪還後も北征のため長安に迎えられぬまま史思明の再陥落に遭い、以後所在不明となった。代宗は十数年探索を続けたが果たせず、徳宗即位後に太后号を追贈しようと詔したが、建中元年11月、遙尊された皇太后の実際の所在は判明しないまま、数度の偽称事件(大中年間まで続いた)が起きるのみで、貞元年間中ついに発見されなかった。徳宗は外族を厚遇し(父沈易直に太師、その子孫にも贈官)、貞元7年には外曾祖沈琳以下の五廟を建てた。憲宗即位年9月、礼儀使の奏により、失踪から27年を経てなお発見されないことを踏まえ睿真皇后と追謚し、神主を代宗廟に祔した。
代宗――崔妃
- 博陵安平の人、父崔峋は秘書少監、母楊氏は韓国夫人(楊貴妃の姉)。代宗が広平王であった頃、玄宗の選定で嬪となり召王偲を生んだ。母方の勢を恃み妬悍であったが、長安陥落で母方一族が誅されると寵愛は薄れ、靈武行の後、長安到着時に薨じた。
代宗――貞懿皇后獨孤氏
- 父独孤穎は左威衛録事参軍。美貌により入宮し寵愛を独占、貴妃に冊せられ韓王迥・華陽公主を生んだ。華陽公主は聡明で帝の機嫌を察するのに長け特に鍾愛され、大暦9年に薨じた際は代宗が数日朝政を執らぬほど嘆いた。大暦10年5月、貴妃も薨じ貞懿皇后を追謚されたが、代宗は殯を宮中に長く留め、大暦13年10月にようやく葬儀(宰相常袞の哀冊文が付された)が行われ、莊陵に華陽公主と共に改葬された。
徳宗――昭德皇后王氏
- 父王遇は秘書監。徳宗が魯王の頃に嬪となり上元2年に順宗を生んだ。徳宗即位後淑妃、貞元2年の病中に皇后に冊せられたその日に両儀殿で崩じた。諡冊文の文言(「大行皇后」「咨後王氏」の是非)を巡り李紓・吳通玄の草稿が問題視され、貞観の岑文本による文徳皇后諡冊「皇后長孫氏」の先例に従うべきとされた。靖陵に葬られ、宗室・李晟・渾瑊・神策六軍大将まで祭祀に加わった。永貞元年11月、崇陵に改めて祔葬された。
徳宗――韋妃
- 出自不詳。良娣から貞元2年に賢妃となり、機知に富み礼を守ったため徳宗に重んじられた。徳宗崩御後は崇陵で服喪し寝園に侍り、元和4年に薨じた。
順宗――莊憲皇后王氏
- 琅邪の人、父王顔は金紫光禄大夫衛尉卿。13歳で代宗より順宗(当時宣王)に賜われ、大暦13年に憲宗を生んだ。順宗即位後は病床に侍り、永貞の内禅で太上皇后、元和元年5月に皇太后となった。仁和恭遜で外戚を厚遇せず母儀の風があり、元和11年3月、咸寧殿で崩じ莊憲皇后と諡された。
- 諡議を巡り礼院は「皇后の諡は廟で読み上げるべき」との議論を行い(『曾子問』『白虎通』を引用)許可された。また称号から「太」字を除くか否かの議論(礼儀使鄭絪が開元6年の昭成皇太后の先例を引用)も行われた。同年8月、豊陵に祔葬された。福王綰、漢陽・雲安・遂安三公主を生んだ。
憲宗――懿安皇后郭氏
- 尚父郭子儀の孫、駙馬都尉郭曖の娘、母は代宗の長女升平公主。憲宗が広陵王の頃に妃となり貞元11年に穆宗を生んだ。元和元年8月に貴妃、元和8年12月に百官が三度上表して立后を求めたが、憲宗は後宮の寵妃への配慮から即位を先延ばしにし続けた。元和15年正月、穆宗即位で皇太后に冊立された。
- 太后は興慶宮に住み、穆宗は毎月朔望に参拝し盛大な行事が行われたが、穆宗自身は奢侈に流れた。敬宗即位後は太皇太后、寶暦末の宦官による昭湣(敬宗)暗殺・絳王擁立の変では太皇太后が江王(文宗)擁立の令を下した。文宗・武宗・宣宗(太后の実子孫)に至るまで七朝にわたり五度太后・太皇太后の位につき、大中年間に興慶宮で崩じ懿安皇太后と諡され景陵に祔葬された。史臣は郭子儀の功徳が後々まで慶事をもたらしたと評した。
憲宗――孝明皇后鄭氏
- 宣宗の母。旧史の欠落により族姓・入宮の経緯は不明。宣宗が光王であった頃の王太妃で、宣宗即位後に皇太后となった。会昌6年、弟の鄭光が「車に日月を載せる夢」を見て貴人になると占われ、まもなく武宗が崩じ宣宗が即位したため元舅として重用され平盧節度使となった。大中末に崩じ孝明と諡された。
女学士尚宮宋氏
- 名は宋若昭、貝州清陽の人。父宋庭芬は儒学者で、5人の娘(若莘・若昭・若倫・若憲・若荀)すべてに経学と詩賦を教えた。若莘・若昭は文才・貞素で知られ、宦仕せず芸学で名を揚げることを誓った。若莘は『女論語』10篇(宋の宣文君宋氏を孔子に、曹大家らを顔淵・閔子騫になぞらえた体裁)を著し若昭が注解した。貞元4年、昭義節度使李抱真の推挙で徳宗が召し出し詩賦・経史を試して感嘆し「学士先生」と呼んだ。
- 元和末に若莘が没すると穆宗は若昭に宮中記注簿籍の管掌(尚宮)を継がせ、憲宗・穆宗・敬宗の三帝から「先生」と呼ばれ梁国夫人に封ぜられた。寶暦初に卒すると敬宗は若憲に職を継がせ、文宗も文才を重んじた。大和中、宦官王守澄と鄭注・李訓の一派が宰相李宗閔失脚を図る中で若憲が賄賂を求めた疑いをかけられ、文宗の怒りで賜死、一族13人が嶺表に流された(李訓失脚後、文宗は誣告と悟り若憲の才を惜しんだという)。若倫・若荀は早世した。
穆宗――恭僖皇后王氏
- 越の人、父王紹卿は婺州金華令。太子宮に入り元和4年に敬宗を生んだ。穆宗即位で妃、長慶4年2月に皇太后。文宗即位当初は「寶暦太后」と呼ばれたが、大和8年、太皇太后との称号混乱を避けるため「義安太后」と改められた。
敬宗――郭貴妃
- 父郭義は右威衛将軍。長慶末に太子宮へ入り敬宗即位後才人として晋王普を生んだ。若年での得子と容徳により特に寵愛され、父は礼部尚書を追贈された。敬宗の変で即位した文宗は晋王を我が子のように可愛がったが大和2年に晋王は薨じ悼懐太子と追贈された。
穆宗――貞獻皇后蕭氏
- 福建の人。十六宅の建安王侍者から元和4年10月に文宗を生んだ。寶暦3年正月、敬宗が弑され王守澄が江王(文宗)を擁立、即位の日に皇太后の尊号が奉られた。
- 太后は乱を逃れて故郷を離れ肉親との音信もなく父母もすでに死没、母方の弟一人のみが縁者であった。文宗が閩越に求めさせたところ、蕭洪という者が姉を名乗り出て国舅として金吾将軍・河陽懐節度使等に累進したが、後に宰相李訓との金銭トラブルから左軍中尉仇士良の讒言で詐称が露見し処刑された(趙縝・呂璋も連座)。続いて蕭本という者が真の弟を名乗り仇士良の後ろ盾で出世したが、開成4年、昭義節度使劉従諫の指摘により蕭本もまた偽者と判明し、三司(高元裕・孫簡・崔郇)による審理で蕭本・蕭弘(別の詐称者)ともに偽と断じられ、それぞれ愛州・儋州へ流された。結局太后は実の弟を得られぬまま終わった。
- 文宗は孝心篤く、太皇太后(郭氏)・寶暦太后(王氏)・皇太后(蕭氏)の「三宮太后」を厚く敬い、日々の献上物に「賜」の字を使わず「奉」に改めさせるなど細やかな配慮を示した。開成中の元宵節には三宮太后を集め家人の礼で祝宴を開いた。武宗即位後、蕭太后は積慶殿に移り「積慶太后」と号され、会昌中に崩じ貞獻と諡された。
事跡の欠けた四后
- 穆宗宣懿皇后韋氏(武宗の母):事跡欠。
- 武宗王賢妃:事跡欠。
- 宣宗元昭皇后晁氏(懿宗の母):事跡欠。
- 懿宗惠安皇后王氏(僖宗の母):事跡欠。
昭宗――積善皇后何氏
- 東蜀の人。寿王邸に侍り婉麗多智で寵を得て徳王・輝王を生んだ。昭宗即位で淑妃、乾寧中の華州行在で皇后に冊立された。乾符以後の戦乱・遷幸の中で常に昭宗の側にあり食事の毒味等で身を守った。岐下からの帰京後、崔胤が宦官を尽く誅殺すると宮中の宣諭は宮嬪が担うようになったが、実権は朱全忠の汴州勢力に握られ宮中の動静は逐一密告された。
- 天祐初、全忠に迫られ洛陽へ遷幸し、その年8月に昭宗は弑された。翌日、宰相柳璨・独孤損らが皇后の令を偽って輝王(哀帝)の即位を宣し、皇后は皇太后とされた。翌年12月、全忠の禅代を巡り、蒋玄暉・張廷範が時期尚早を進言したことを宣徽副使趙殷衡が「玄暉が何太后と私通し唐室復興を誓った」と讒言し、全忠は蒋玄暉・張廷範・柳璨らを誅殺、太后も積善宮で殺害され、宮人阿秋・阿虔も殺され、太后は庶人に落とされた。
史論
- 賛にいう。坤徳の道は正しく保たれてこそ史書に光彩を放つ。韋后・武后は国を喪うほどの害毒を及ぼし、後宮の教えは廃れ嬪風も損なわれた。ひとり長孫皇后の母儀の徳こそ、まことに偉大であった。