舊唐書卷五十七
(本文冒頭に篇名の行がなく底本から篇名を確定できないため、巻番号のみを見出しとする。李密の列伝で、単雄信の附伝を含む。)
李密――出自と若年
- 字は玄邃、本は遼東襄平の人。魏の司徒李弼の曾孫(後周から徒何氏の姓を賜った)。祖父李曜は周の太保・魏国公、父李寛は隋の上柱国・蒲山公で、いずれも当代に名を知られた。京兆長安に移住。父の蔭で左親侍となり宿衛に当たっていた際、煬帝がその眼つきを見て「宿衛させるな」と命じ、宇文述の勧めで学問に専念することとなった。牛に乗り『漢書』を角に掛けて読みながら歩いていたところ楊素に見出され、楊素は子の楊玄感に「李密の識度は汝らに及ばない」と語り、玄感が心服して交わりを結んだ。
李密――楊玄感の乱への参画
- 大業9年、玄感が黎陽で挙兵を謀ると密を謀主として迎えた。密は「幽州を衝いて煬帝の退路を断つ上策」「関中を衝く中策」「東都を攻める下策」の三策を進言したが、玄感は百官の家族が東都にあることを理由に下策を選んだ。玄感は緒戦で連勝したが、内史舎人韋福嗣を腹心に用いたため密の献策が通らなくなり、密の「福嗣を斬るべし」との進言も容れられなかった。李子雄の勧めで玄感が帝号僭称を図った際も密は陳勝・曹操の先例を引いて時期尚早と諫め、玄感はこれに従った。宇文述・来護児らの隋軍接近時、密は元弘嗣の反乱を偽装して関中入りする策を献じたが、弘農宮攻囲に固執した玄感は敗死、密は捕らえられた。
李密――逃亡と翟讓への合流
- 煬帝の下へ護送される途中、密は同行者に金品を配って護送使を懐柔し、邯鄲で牆を穿って脱走した。平原の郝孝徳、淮陽での隠棲(劉智遠と名乗り塾を開く)を経て、鬱悶のうちに五言詩を作り涙したという逸話が伝わる。密は東郡の賊帥翟讓のもとに身を投じたが、玄感の残党と知られ一時囚われた。王伯当を通じて「隋の衰亡は劉邦・項羽の挙兵の好機」と説き翟讓に釈放され、以後は諸賊を説いて帰順させ、滎陽攻略・張須陀撃破(伏兵の計で斬殺)などの戦功を重ね、翟讓から軍の一部を委ねられた。密は倹素を旨とし戦利品を部下に分与し人心を得た。
李密――興洛倉の奪取と魏公即位
- 密の進言により大業13年春、興洛倉を奇襲し陥落させ、貯穀を民に開放したところ帰服者が数十万に達した。隋の劉長恭の討伐軍を撃破すると翟讓は密を主に推し、密は鞏南に壇を設けて「魏公」を称し元年を建て、房彦藻・邴元真ら左右長史、翟讓を司徒(東郡公)、単雄信・徐世勣を左右武候大将軍、祖君彦を記室とするなど官制を整え、洛口周囲40里に城を築いた。
李密――勢力拡大と東都討伐の檄文
- 孟譲・裴仁基父子ら諸将が相次いで帰順し、回洛倉の奪取・東都攻囲を進めた。密は祖君彦に命じて煬帝を十の罪状で断罪する檄文(弑父弑君・淫乱・酒色荒淫・宮室濫造・重税・巡遊濫費・遼東遠征の失敗・忠臣誅殺・売官鬻獄・信賞不明の十罪)を起草させ諸郡県に配布し、味方の諸将(翟讓・孟譲・孟暢・裴行儼・邴元真ら)と諸方の反乱勢力(房彦藻・徐円朗・孟海公・郝孝徳・李士雄・王徳仁ら)を列挙して天下に呼びかけた。
李密――柴孝和の献策と王世充との攻防
- 柴孝和は関中先取(漢高祖の故事)を献策したが、密は自軍が山東出身者中心で東都攻略を優先せねば従わないとして退けた。密が流矢を受け軍が乱れると東都軍に回洛倉を奪われたが、まもなく洛口に帰還。煬帝が派遣した王世充との攻防は百余日・大小60余戦に及び、柴孝和は洛水で溺死した。元宝蔵・李文相・張升・趙君徳・郝孝徳ら諸賊も次々帰順し黎陽倉を奪取、周法明・徐円朗ら江淮の勢力も密に帰した。
李密――翟讓誅殺
- 翟讓の部将王儒信が翟讓に大塚宰就任を勧め密の権を奪おうとし、翟讓の兄翟寛も帝位継承を仄めかしたため、密は翟讓を宴に招いて謀殺し、兄翟寛・王儒信も殺した。徐世勣は乱兵に傷つけられたが密が制止し助命、単雄信らも赦されて慰撫された。以後、密は徐世勣・単雄信・王伯当に旧翟讓軍を分掌させた。王世充との激戦(浮橋での数万溺死)に勝利し偃師を陥れて金墉城に拠り、軍勢30余万に達した。東は海・岱、南は江淮の郡県が次々帰服し、竇建徳・朱粲・孟海公・徐円朗らも密に勧進の使者を送ったが、密は「東都平定前は帝号を議さぬ」とした。
李密――唐高祖との書簡往来
- 挙兵した李淵(高祖)に対し密は書を送り「兄」と呼び連合を求めたが、その文言は殷紂王・秦子嬰を討つになぞらえたもので高祖の代王殺害を暗示していた。高祖は笑って「李密は放縦だが、東都への牽制役として利用すべし」と考え、温大雅に謙譲の返書(唐の再封で満足する、盟津の会は時期尚早等)を書かせ密を懐柔した。密はこれを喜び「唐公が推戴してくれれば天下平定は難しくない」と述べ、以後は王世充との戦いに専念した。
李密――宇文化及との戦い
- 宇文化及が江都から北上し黎陽に迫ると、密は自ら歩騎2万で対抗した。隋の越王侗は密を太尉・尚書令等に任じ化及討伐を命じた。密は化及の兵糧不足を見抜き徐世勣に倉城を守らせて持久戦に持ち込み、偽りの和睦で化と食糧を消耗させた後、衛州童山で決戦し勝利した(自身は流矢を受けた)。化及軍の陳智略・張童仁らが次々密に帰順し、東郡の王軌も降った。密は煬帝弑逆の実行犯于弘達を捕らえ越王侗に献上したが、洛陽入朝の途上で王世充の政変を知り引き返した。
李密――王世充との決戦と敗北
- 東都の食糧難と密軍の衣料不足から交易が始まり、これにより東都からの帰順者が減少したことを密は後悔した。密は倉を握るが府庫がなく論功行賞が滞り、新参兵を厚遇したため軍心に不満が生じた。武徳元年9月、王世充軍5000との決戦で密は敗れ、裴仁基・祖君彦は捕らえられた。偃師守将鄭頲配下の兵の裏切りで城も落ち、邴元真の内通も発覚したが機を逸し、密は武牢へ敗走、邴元真は世充に城を明け渡した。
李密――唐への帰順と最期
- 単雄信のもとへ向かうことを危ぶむ声があり、密は王伯当のもとへ逃れ自刎を図ったが伯当に止められ、部下から「唐公と同族であり東都を牽制した功もある」と慰められ、なお2万の兵を率いて関中入りした。高祖は当初手厚く迎えたが次第に礼遇が薄れ、光禄卿・邢国公に封じられるにとどまった。
- 高祖は密に旧部下の招集と王世充討伐を命じたが、途中で召還されると密は反意を固め、王伯当の制止も聞かず、婦人姿に扮した精兵で桃林県城を襲い南山を経て東へ逃れようとした。右翊衛将軍史万宝配下の盛彦師の伏兵に陸渾県南で襲撃され、密は斬られた(享年37)。王伯当も死し、首級は共に京師に送られた。黎陽総管であった旧知の李勣は密の反乱の報を受けつつも遺体の収葬を願い出て許され、三軍を縞素にして黎陽山南五里に葬り、故人たちは血を吐くほど哭泣したという。密の旧部将邴元真は王世充のもとで行台僕射となったが、密の旧将杜才幹に謀殺され、その首は密の墓に供えられた。
単雄信
- 曹州の人。翟讓と親しく、馬上での槍使いに優れ密軍で「飛将」と称された。密が偃師で敗れると王世充に降り大将軍となった。太宗が東都を包囲した際、単雄信は槍を構えて太宗に迫ったが徐世勣が「秦王である」と呼び止めたため退き、太宗は難を逃れた。東都平定後、洛陽で斬られた。
史論
- 史臣は評す。隋政の乱れと煬帝の荒淫の中、李密は民の不満に乗じて挙兵し、鞏・洛の要衝を握り百万の軍を号し竇建徳らも彼を推戴し、唐公さえ懐柔の対象とするほどの勢いを示した。偃師で敗れてなお数万の兵を保っていたにもかかわらず、猜疑を捨てず黎陽へ急行して徐世勣を将、魏徴を謀主として用いていれば、天下の帰趨はなお定まらなかったかもしれない。しかし天命が既に去った以上、陳勝にも劣る結末となった。当初は首唱の将であったのに終には降虜に甘んじ、さらに臣節を尽くさず叛いて狂夫と化し、王伯当の諫めを容れず桃林の禍を招いた。項羽になぞらえられることもあるが、文武の器量は勝るものの果断さは及ばない。楊素がその才幹を見抜きながら、愚息(玄感)の謀主にゆだねてしまったことが、一族滅亡の禍を招いたのも当然であろう。
- 賛にいう。太陽が既に昇っても、燈火はなお消えない。狂ったるかな李密、始めは乱を起こし終には逆賊となった。