舊唐書卷五十五
(本文冒頭に篇名の行がなく底本から篇名を確定できないため、巻番号のみを見出しとする。内容は後妃の列伝である。)
後宮の制度と総序
- 唐は隋の制を承け、皇后の下に貴妃・淑妃・徳妃・賢妃各1人(正一品、夫人)、昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛各1人(正二品、九嬪)、婕妤9人(正三品)、美人9人(正四品)、才人9人(正五品)、宝林27人(正六品)、御女27人(正七品)、采女27人(正八品)を置き、六尚の諸司が乗輿服御を分掌した。龍朔2年に官名が改められ咸亨2年に旧に復した。開元中、玄宗は帝嚳の故事に倣い皇后の下の四夫人を廃し、恵妃・麗妃・華妃の三位(正一品)、芳儀6人(正二品)、美人4人(正三品)、才人7人(正四品)、尚宮・尚儀・尚服各2人(正五品)などに改めた。
- 三代の政は賢妃で国を興し嬖寵で国を傾けてきた。高祖は宮闈の言に禍の端を発し、武后・韋氏の代には社稷が幾度も危うくなり、玄宗は恵妃・楊貴妃への愛によって天下を失いかけた。史書に残る后妃を『后妃伝』として記す。
高祖――太穆皇后竇氏
- 京兆始平の人、隋の定州総管神武公竇毅の娘。母は北周武帝の姉襄陽長公主。幼時から周武帝に愛され宮中で養われ、突厥女を皇后とした武帝に和親政策を進言したという逸話がある。竇毅は「才貌ある娘を安易に嫁がせられぬ」として孔雀の的を射させる婿選びを行い、高祖が両矢とも命中させて娶った。
- 周武帝崩御を実父の死のように悼み、隋の受禅の際には「男でないため舅の難を救えぬのが恨めしい」と嘆いて父母を驚かせた。元貞太后によく仕え孝で知られ、書は高祖の筆跡と区別がつかないほど巧みであった。大業中、扶風太守であった高祖に「鷹馬を上に献じるな、身の累となる」と諫めたが聞かれず高祖は譴責を受けた。まもなく涿郡で45歳で崩じ、高祖は後にこの諫言を思い出し涙した。上元元年8月、太穆順聖皇后と追号された。
太宗――文德皇后長孫氏
- 長安の人、隋の右驍衛将軍長孫晟の娘。13歳で太宗に嫁ぎ、玄武門の変の際には将士を親しく慰めて助力した。太宗即位後皇后となり、倹約を旨とし、太宗が政事を論じても「牝鶏の晨は家の乱れ」として関与を固辞した。兄の長孫無忌の重用を強く諫めたが太宗は聞かず左武候大将軍等に任じ、皇后は密かに無忌に辞退を求め開府儀同三司に落ち着かせた。異母兄の安業が謀反に連座した際には「妾が兄への恩を恃んだと誤解されては聖朝の累になる」と述べ助命した。
- 娘の長楽公主の嫁入りに際し太宗が過分な資送を命じたのを魏徴が諫めた話を聞き、皇后は「義を以て君主の情を制する忠臣」と称え帛500匹を魏徴に贈らせた。太子承乾の乳母が東宮の器物不足を訴えた際には「太子の憂いは徳が立たぬことにあり、器物の多寡ではない」と退けた。
- 貞観8年、病床で赦囚・度僧の祈願を勧める太子に対し「死生は命による、私一人のために国法を乱してはならない」と拒んだ。臨終に際しては房玄齢の重用継続と、外戚(長孫氏一族)を要職に就けぬよう遺言し、薄葬(因山葬・棺槨不要)を求めた。貞観10年6月己卯、立政殿にて36歳で崩じ、同年11月昭陵に葬られた。
- 生前『女則』10巻を著し、漢の明徳馬皇后が外戚を抑制できなかった点を批判する論も記した。崩御後にこの書が奏上されると太宗は「良佐を失った」と深く悲しんだ。上元元年8月、文徳順聖皇后と追号された。
太宗――賢妃徐氏
- 名は徐恵、右散騎常侍徐堅の姑にあたる。生後五月で言葉を発し、4歳で『論語』『毛詩』を暗誦し、8歳で文章を作った。太宗に才人として召され、婕妤・充容に昇った。軍旅・宮室の造営が続き民が疲弊していた頃、貞観22年の太平を守り功成り名遂げてなお驕らぬよう戒め、遼海・昆丘の遠征による疲弊、土木の労、珍玩奢侈の弊を諫める長文の上疏を行った(秦の始皇帝・晋の武帝の失敗を例に引き、桀の漆器・紂の玉杯の故事も引用)。太宗はこれを善しとし厚く賞した。
- 太宗崩御後、生前の厚遇を偲んで病を得て自ら医を求めず、「早く逝って陵墓に侍りたい」と述べ七言詩と連珠を作った。永徽元年、24歳で卒し、賢妃を追贈され昭陵の石室に陪葬された。
高宗――廃后王氏
- 并州祁の人。伯母の同安長公主の縁で太宗に美貌を認められ晋王妃となり、高宗立太子後は皇太子妃、永徽初年に皇后となった。武氏(後の則天武后)を後宮に呼び戻すことに関与したが、やがて武昭儀の寵愛が増し、皇后・良娣蕭氏と互いに讒言し合う関係となった。皇后が母柳氏と共に厭勝の呪術を行ったことが発覚し、柳氏の入宮禁止・舅柳奭の失脚を招いたが、長孫無忌・褚遂良の諫言で廃后は一旦回避された。永徽6年10月、李義府の策により王皇后・蕭良娣はともに庶人に落とされ幽閉され、武昭儀の命で縊殺された。母柳氏や兄弟も嶺外に流された。
高宗――良娣蕭氏
- 幽閉時「私が猫となり阿武(武氏)を鼠として喉を扼したい」と呪ったため、以後宮中で猫が飼われなくなったという逸話がある。高宗が偲んで幽閉先を訪れ「皇后・淑妃はどこか」と問うた際、庶人となった二人は「回心院」への改名を望んだが、これを知った武后は二人をそれぞれ杖百・手足切断のうえ酒甕に沈めて処刑した。後に則天は二人の亡霊に悩まされ、東都に多く滞在するようになったという。中宗即位後、王氏・蕭氏の姓が回復された。
中宗――和思皇后趙氏
- 京兆長安の人。祖父趙綽は右領軍衛将軍、父趙瑰は高祖の娘常楽公主に尚した。中宗が英王であった頃に妃となったが、母常楽公主の連座で廃され内侍省で幽死した。則天臨朝中、父趙瑰も越王貞との謀反連座で誅殺された。神龍元年、恭皇后と追謚され、中宗崩御後、韋后の連座で定陵に祔葬できず「和思」と追謚し招魂祔葬の礼が行われた(太常博士彭景直の提案による)。
中宗――韋庶人
- 京兆万年の人。中宗が太子時代に妃となり、嗣聖元年に皇后となったが中宗の廃位に伴い房州に随従した。房州流謫中、自殺を図る中宗を「禍福は巡るもの、死を急ぐな」と励まし、艱難を共にした。生んだ懿徳太子・永泰・永寿・長寧・安楽の四公主のうち末娘安楽公主は房州生まれで中宗が自ら衣で包んだことに因み「裹児」と名付けられた。
- 中宗復位後、上官昭容の勧めで則天の故事に倣い出母への三年服喪や成丁年齢の改定など制度変更を上表し許可された。復位後の中宗は武三思を宮中に引き入れ皇后と双六に興じさせるなど醜聞が絶えず、宮女の大量放出も行われた。武三思は上官氏と結び皇后に取り入り、敬暉ら「五王」を滅ぼし、帝后は「応天皇帝」「順天皇后」の尊号を受けた。皇后は親族を優遇し、安楽公主に開府を許すなど寵愛を注いだが、安楽公主は売官鬻獄・自ら制勅を書いて帝に押印を求める専横、さらには皇太女を望むほどであった。
- 神龍3年、宗楚客ら百官が皇后に「順天翊聖皇后」の号を加えた。景龍2年、皇后の衣箱に五色雲が出たとする祥瑞が捏造され、右驍衛将軍迦葉志忠の上表(歴代皇帝の受命前の童謡になぞらえる)などにより大赦・褒賞が行われた。上官昭容とその母鄭氏、尚宮柴氏・賀婁氏らは賄賂で党与を広げ、斜封官の乱発を招いた。景龍3年冬の南郊祭祀では国子祭酒祝欽明の建議により皇后が亜献を務めることとなり、太常博士唐紹・蒋欽緒の反対を押し切って実施された。景龍4年正月には帝后が微行して観灯し、宮女数千を放って夜遊させるなど風紀が乱れた。国子祭酒葉静能、散騎常侍馬秦客、光禄少卿楊均らが宮掖に出入りし、馬秦客・楊均は皇后の寵を得た。
- 景龍4年6月、中宗が毒殺され(世論は馬秦客・安楽公主を疑う)、皇后は喪を秘し裴談・張錫を東都留守とし、兄韋温と諮って温王重茂を皇太子に立て京城に5万の兵を集めた後に発喪、皇太后として臨朝摂政した。韋温が内外の兵馬を統べ、武延秀ら韋氏一族が羽林軍・飛騎・万騎を掌握したが、その専横に人心が離反。臨淄王(後の玄宗)は薛崇簡・鍾紹京・劉幽求と共に万騎を率いて玄武門から突入し韋璿・韋播・高崇を斬り、さらに太極殿に迫った。皇后は飛騎営に逃げ込んだが武延秀・安楽公主とともに乱兵に殺され、韋氏・武氏の一族はことごとく誅殺された。皇后と安楽公主の首は東市に梟され、翌日、皇后は庶人に追貶されつつ一品の礼で改葬、安楽公主は「悖逆庶人」として三品の礼で葬られた。
中宗――上官昭容
- 名は上官婉児、西台侍郎上官儀の孫。祖父・父が誅殺された際は繈褓の身で母とともに掖庭に配された。成長して文才と吏事に明るく、則天朝で忤旨により死罪となるところを才を惜しまれ黥面のみで許された。聖歴以後は百司の表奏の処理を任され、中宗即位後は制命を専掌する昭容となった。武三思と密通し詔勅で武后の権威を高め李唐皇室を抑える方向に誘導した。節愍太子の挙兵時には皇后と共に玄武門楼に逃れた。詩文の宴を好み、帝・皇后・長寧安楽二公主に代わって多くの詩を代作した。吏部侍郎崔湜とも通じ政事に関与させた。韋后誅殺の際に共に処刑された。玄宗は彼女の詩文集20巻を編ませ張説に序を書かせた。妊娠中、母は「大秤を授けられる夢」を占われ「貴子を生み国の権衡を秉る」と予言され、実際に内政を専掌するに至った。
睿宗――粛明皇后劉氏
- 刑部尚書劉徳威の孫、父劉延景は陝州刺史。儀鳳中、睿宗の藩邸時代に孺人として入り、後に妃となり寧王憲・寿昌代国二公主を生んだ。文明元年睿宗即位で皇后となるが、皇嗣への降格に伴い妃に戻った。長寿中、昭成皇后とともに則天に処刑された。景雲元年、粛明皇后と追謚され東都城南に招魂葬(陵名は恵陵)、睿宗崩御後に橋陵へ遷祔されたが、昭成太后の存在により太廟には入れず儀坤廟に別祀され、開元20年になってようやく太廟に祔された。
睿宗――昭成皇后竇氏
- 将作大匠竇抗の曽孫、父竇孝諶は潤州刺史。睿宗が相王であった頃に孺人として重んじられ、光宅元年に徳妃となり玄宗・金仙公主・玉真公主を生んだ。長寿2年、戸婢団児の讒言により粛明皇后とともに厭蠱の罪で処刑され、遺体の所在も知れなかった。睿宗即位後、昭成皇后と追謚され都城南に招魂葬(陵名は靖陵)、京師に儀坤廟を建立。睿宗崩御後は帝母として皇太后に追尊され橋陵に祔葬、神主も太廟に遷された。
玄宗――廃后王氏
- 同州下邽の人、梁の冀州刺史王神念の後裔。玄宗が臨淄王であった頃に妃となり挙兵に参画し功があった。先天元年に皇后となり父王仁皎は太僕卿から邠国公にまで累進した。皇后は子がなく廃立を恐れ、兄王守一が僧明悟による厭勝(霹靂木に天地字と諱を刻み子を祈る呪術で則天皇后に比する言を用いた)を仕組んだことが発覚し、開元12年7月、皇后は庶人に落とされ王守一は賜死、同年10月に卒し一品の礼で無相寺に葬られた。宝応元年に冤罪が雪がれ皇后に復された。
玄宗――貞順皇后武氏
- 則天の従父兄の子恒安王武攸止の娘。幼くして父を失い後宮に入り、王皇后廃后後に恵妃の号を賜り皇后に準じる礼遇を受けた。夏悼王・懐哀王・上仙公主は早世し、寿王瑁は宮中で育てられず寧王憲の下で養われ、盛王琦・咸宜太華二公主を生んだ。開元25年12月、40余歳で薨去し、貞順皇后を追贈され敬陵に葬られたが、乾元以後は廟祀も絶えた。
玄宗――楊貴妃
- 高祖は楊令本(金州刺史)、父は楊玄琰(蜀州司戸)。幼くして父を失い叔父楊玄璬に養われた。開元24年に武恵妃が薨じ後宮に意に沿う者がなかった折、玄琰の娘の美貌が奏され道士服(太真)で召し出され、1年ならずして恵妃並みの礼遇を受けた。豊艶な容姿・歌舞音律の才に優れ、姉3人(韓国・虢国・秦国夫人)も権勢を得て天下に威を張った。父玄琰は太尉斉国公を追贈され、従兄楊銛は鴻臚卿、楊錡は侍御史として武恵妃の娘太華公主に尚し、両家への請託は詔勅同然に扱われた。
- 天宝5載7月、些細な譴責で楊銛の私邸に戻された際、玄宗は食事も喉を通らぬほど恋慕し、高力士の計らいで貴妃を宮中に呼び戻して以後寵愛はいっそう篤くなった。三夫人には年千貫の脂粉料が与えられ、五家は競って豪奢な邸宅を造営し玄宗からの下賜も絶えなかった。楊貴妃には専属の刺繍工700人・雕刻鋳造の工数百人が仕え、揚州・益州・嶺表の刺史は珍器異服を献じて出世を図った。毎年の華清宮行幸には楊国忠一族五家が色違いの装束で扈従し、楊国忠と虢国夫人の私通も憚らず行われた。天宝9載に再び些細な譴責で邸へ戻された際、貴妃は自ら髪を切って献じ、玄宗は驚き高力士に召還させた。
- 楊国忠は宰相として剣南節度使を兼ね専横を極め、天宝10載の元宵節には楊家の夜遊が広平公主と衝突する事件も起きた。安禄山が范陽節度使として重用され、玄宗の命で貴妃姉妹と義兄弟の契りを結ばせたが、安禄山の反乱で楊国忠の罪が檄文に挙げられ、皇太子が天下兵馬元帥となると楊国忠一族は動揺した。潼関陥落後の馬嵬行幸で禁軍将陳玄礼が楊国忠父子を誅殺したが軍が解散せず、高力士の奏上により玄宗はやむなく貴妃に死を賜り、貴妃は仏室で縊死した(享年38)。駅の西の道端に埋葬された。
- 玄宗は蜀からの帰還後に改葬を命じたが、龍武将士の疑懼を憂う礼部侍郎李揆の諫めで中止され、密かに他所へ改葬させた。埋葬時に包んだ紫褥は肌が朽ちても香嚢だけが残っており、玄宗はこれを見て別殿に肖像を描かせ朝夕眺めたという。
- 馬嵬での楊国忠誅殺時、虢国夫人は陳倉まで逃げたが県令薛景仙に追われ竹林で子と娘を殺され自らも自刎したが死にきれず獄中で絶命した。楊国忠の妻裴柔も刺殺された。韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人それぞれの縁者は代宗・粛宗・譲皇帝一族と婚姻関係にあった。