舊唐書卷三十三

立部伎八部

  • 高祖の即位後、享宴には隋の旧制に倣い九部の楽が用いられたが、後に立部伎・坐部伎の二部に分けられた。立部伎には《安楽》《太平楽》《破陣楽》《慶善楽》《大定楽》《上元楽》《聖壽楽》《光聖楽》の八部があった。
  • 《安楽》は北周の武帝が北斉を平定した際に作られ、行列が方正で城郭を象るため「城舞」とも呼ばれる。舞人八十人。木製の面をつけ狗の口・獣の耳を金で飾り、羌胡風の姿で舞う。
  • 《太平楽》は「五方師子舞」とも呼ばれ、西南夷の天竺・師子国等に由来する。獅子に模した被り物を人が着て馴れた様を演じ、二人が縄と払子を持って調教の様を演じる。五頭の獅子はそれぞれの方角の色を表し、百四十人が《太平楽》を歌いながら足で舞う。
  • 《破陣楽》は太宗が作ったもので、太宗が秦王であった頃の征伐の中で民間に生まれた《秦王破陣楽》の曲を、即位後に呂才が音律を整え、李百藥・虞世南・褚亮・魏徴らが歌辞を作った。百二十人が甲冑をつけ銀飾りの戟を持ち、勇壮な調子で演じ、宴享で奏される際には天子も座を避け、宴に列する者も皆立ち上がった。
  • 《慶善楽》も太宗が作ったもので、太宗の生誕地である武功の慶善宮での宴で作った詩に管弦を付けたもの。舞人六十四人、紫の大袖の衣に漆髻・皮履で、安徐な舞により文徳による天下太平を象る。
  • 《大定楽》は《破陣楽》から派生し、舞人百四十人が五彩の文様の甲を着け槊を持ち、「八紘同軌楽」と歌って遼東平定と辺境の安定を象る。
  • 《上元楽》は高宗が作ったもので、舞人百八十人が雲を描いた五色の衣を着けて元気を象る。
  • 《聖壽楽》は高宗・武后が作ったもので、舞人百四十人が金銅の冠と五色の絵衣を着け、隊列で文字(「聖超千古、道泰百王、皇帝萬年、寶祚彌昌」)を象りながら十六変にわたり舞う。
  • 《光聖楽》は玄宗が作ったもので、舞人八十人が烏帽子と五彩の絵衣を着け、《上元楽》《聖壽楽》の趣を兼ねて王朝の興隆を歌う。
  • これらの舞にはいずれも大鼓が雷のように打たれ亀茲の楽が加わり、その音は百里に響いたが、《慶善舞》のみは西涼楽を用いて閑雅であった。《破陣》《上元》《慶善》の三舞は衣冠を替え鐘磬に合わせて郊廟に用いられ、《破陣》は武舞として《七徳》、《慶善》は文舞として《九功》と呼ばれた。則天武后が唐の太廟を毀した後、この礼は名ばかりで実質を失った。立部伎の八舞は皆立って奏されるためこう呼ばれ、その他は坐部伎と総称された。則天・中宗の代には坐立の諸舞が大いに増造されたが、まもなく廃れた。

坐部伎六部

  • 坐部伎には《宴楽》《長壽楽》《天授楽》《鳥歌萬歳楽》《龍池楽》《破陣楽》の六部があった。
  • 《宴楽》は張文収が作ったもので、《景雲楽》《慶善楽》《破陣楽》《承天楽》の四部(合計舞人二十人)からなり、それぞれ異なる衣装・楽器編成を持つが、《景雲舞》のみが現在に伝わり他は失われている。
  • 《長壽楽》は武太后の長寿年間に作られ、舞人十二人が絵柄の衣冠を着ける。《天授楽》は天授年間に作られ、舞人四人が五彩の絵衣に鳳冠を着ける。《鳥歌萬歳楽》は、宮中で人語を話し常に「万歳」と鳴いた鳥にちなんで武太后が作らせたもので、舞人三人が緋の大袖に鸜鵒(ハッカ鳥)を描いた鳥形の冠を着ける。この鳥は嶺南産の「吉了」という鳥ではないかとされ、著者は『漢書』武帝紀に見える「能言鳥」についての諸説を検討し、鸚鵡ではなくこの吉了を指すのではないかと考察している。
  • 《龍池楽》は玄宗が藩邸にあった頃、邸の南の坊が池に変じた瑞祥にちなんで作られ、玄宗が即位して坊を宮とした後さらに池が広がったことを祝う楽で、舞人十二人が芙蓉を飾った冠を着ける。坐部伎の《破陣楽》は玄宗が作ったもので、立部伎の《破陣楽》から派生し、舞人四人が金の甲冑を着ける。《長壽楽》以降はいずれも亀茲楽を用い舞人は靴を履くが、《龍池楽》のみ雅楽を用い鐘磬を用いず舞人は履(靴でない履物)を履く。

清楽(南朝の旧楽)

  • 《清楽》は南朝の旧楽で、永嘉の乱により五都(西晋の都)が陥落した際に江左(南朝)に伝わった。宋・梁の頃に最も盛んで、後魏の孝文帝・宣武帝が淮水・漢水方面での軍事を通じて得た南方の音楽を《清商楽》と呼び、隋が陳を平定した後、清商署を置いて総称《清楽》とした。梁・陳の滅亡以降しだいに散逸し、隋代以降さらに欠けていった。
  • 武太后の頃には六十三曲が残っていたが、現在歌辞が伝わるのは《白雪》《公莫舞》《巴渝》《明君》《鳳將雛》《明之君》《鐸舞》《白鳩》《白紵》《子夜》《呉声四時歌》《前渓》《阿子》《歓聞》《団扇》《懊憹》《長史変》《督護》《読曲》《烏夜啼》《石城》《莫愁》《襄陽》《棲烏夜飛》《估客》《楊伴》《雅歌》《驍壺》《常林歓》《三洲》《采桑》《春江花月夜》《玉樹後庭花》《堂堂》《泛竜舟》等三十二曲に、《明之君》《雅歌》各二首、《四時歌》四首を加えた三十七首、さらに歌辞を欠く七曲(《上林》《鳳雛》《平調》《清調》《瑟調》《平折》《命嘯》)を合わせた計四十四曲である。
  • 各曲の由来として、《白雪》は周の楽曲、《平調》《清調》《瑟調》は周の房中曲の遺声(漢代に三調と呼ばれた)とされる。《公莫舞》(晋・宋では巾舞)は鴻門の会で項荘の剣舞から沛公を庇った項伯の袖の逸話に由来する。《巴渝》は漢の高祖が蜀漢から楚を伐った際に前鋒とした板盾蛮の勇壮な歌舞にちなむ。《明君》は前漢の元帝の時、匈奴に嫁いだ王昭君を悼んだ漢人が作った歌で、西晋では石崇の妓・緑珠がこれを舞に用いて新歌を作り、晋文王の諱を避けて《明君》と呼ばれるようになった。
  • 《鳳將雛》は漢代の古曲、《明之君》は漢の《鞞舞曲》を梁の武帝が改詞したもの、《鐸舞》は漢曲、《白鳩》は呉の《払舞曲》(孫皓の虐政を憂えた呉人の作とされる)、《白紵》は呉の地の楽と推定され梁の武帝が沈約に改詞させたもの、《子夜》は晋代に子夜という女性が作った哀切な曲、《前渓》は晋の車騎将軍沈珫の作、《阿子》《歓聞》は晋の穆帝升平初年の歌の呼びかけに由来する。
  • 《団扇》は晋の中書令王瑉と嫂の婢との情愛の逸話、《懊憹》は晋の隆安初年の民間の訛謡、《長史変》は晋の司徒左長史王廞が敗死に際して作った曲、《督護》は宋の彭城内史徐達之が殺された際の妻の哀切な呼びかけに由来し(現伝の歌辞は宋の孝武帝作)、《読曲》は彭城王義康の死罪に関する歌、《烏夜啼》は宋の臨川王義慶が兄弟の悲劇の後に作った歌とされる。
  • 《石城》は宋の臧質が竟陵郡で少年の歌を聞いて作った曲、《莫愁楽》はそこから派生した石城の女性・莫愁にまつわる歌、《襄陽楽》は宋の随王誕の作、《棲烏夜飛》は宋の沈攸之が敗死前の望郷の情から作った曲、《估客楽》は斉の武帝が布衣時代の樊・鄧遊歴を追憶して作った曲(釈宝月が作曲を完成させた)、《楊伴》は斉の隆昌時代の童謡に由来、《驍壺》は投壺の楽と推定される。
  • 《常林歓》は宋・梁の頃、荊・雍を治めた皇子にまつわる曲、《三洲》は商人の歌、《采桑》はそこから派生した曲、《春江花月夜》《玉樹後庭花》《堂堂》はいずれも陳の後主の作、《泛竜舟》は隋の煬帝が江都の離宮で作った曲とされる。他の五曲は作者不詳で、辞は概して俗であるが古曲として書き留められている。
  • 南朝の時代、《巾舞》《白紵》《巴渝》等は各々異なる衣装を用い、梁以前は舞人が十六人であったが梁で八人に省かれた。当時の楽の陣容(鐘・磬・琴・瑟・秦琵琶・臥箜篌・築・箏・節鼓・笙・笛・簫・篪・葉・歌)が記される。長安遷都以降、朝廷が古曲を重んじなくなり伎人が減り、現存する曲は《明君》《楊伴》《驍壺》《春歌》《秋歌》《白雪》《堂堂》《春江花月》の八曲のみとなった。楽章も欠落が進み、《明君》は武太后時代には四十言あったのが現在は二十六言しか伝わらない。歌工の李郎子(北人で江都の兪才生に学んだ)が逃亡した後、《清楽》の歌はさらに廃れたという。

西涼楽と諸国の楽(東夷・南蛮・西戎・北狄)

  • 《西涼楽》は後魏が沮渠氏を平定した際に得たもので、涼州に伝わった中国旧楽に羌胡の音が混じったもの。魏・隋ともにこれを重んじた。舞人の服装・楽器編成(鐘・磬・彈箏・搊箏・箜篌・琵琶・五弦琵琶・笙・簫・篳篥・笛・横笛・腰鼓・斉鼓・簷鼓・銅拔・貝)が詳述される。
  • 『周官』の韎師・鞮鞻氏の職掌を引き、東夷の楽を《韎離》、南蛮の楽を《任》、西戎の楽を《禁》、北狄の楽を《昧》と呼んだ古制を述べる。
  • 後魏の曹婆羅門が商人から亀茲琵琶を学び、その孫の妙達が北斉の高洋に重用された故事、北周の武帝が突厥の后を迎えた際に亀茲・疏勒・安国・康国の楽が長安に集められた経緯、天竺・高麗・百済の伎楽が伝来した経緯、隋文帝が陳平定で《清楽》《文康礼畢曲》を得て九部伎を列した経緯、煬帝が林邑国平定で扶南の楽人を得た経緯、西魏と高昌の通交で高昌伎が伝わった経緯、太宗の高昌平定でその楽を収め《宴楽》を作り《礼畢曲》を除いた経緯が述べられ、令に著されている十部(十部楽)が現行のものとされる。徳宗の代には驃国も使者を遣わし楽を献じた。
  • 《高麗楽》は舞人四人、金銅璫を飾った椎髻の姿で対舞し、楽器編成(彈箏・搊箏・箜篌・琵琶・義觜笛・笙・簫・小篳篥・大篳篥・桃皮篳篥・腰鼓・斉鼓・簷鼓・貝)が記される。武太后の頃には二十五曲あったが今は一曲のみが伝わり、衣装も衰えている。《百濟楽》は中宗の代に楽工が死散し、岐王李範が太常卿として再興を奏したため伎楽の多くが欠けている。舞人二人、紫の大袖に章甫冠・皮履で、箏・笛・桃皮篳篥・箜篌・歌が残る。
  • 《扶南楽》は舞人二人、隋代は全て《天竺楽》を用いたが現存するのは羯鼓・都曇鼓・毛員鼓・簫・笛・篳篥・銅拔・貝。《天竺楽》は舞人二人が辮髪に朝霞の袈裟(僧衣)を着け、楽器編成(銅鼓・羯鼓・毛員鼓・都曇鼓・篳篥・横笛・鳳首箜篌・琵琶・銅拔・貝)を持つ。《驃国楽》は貞元中に本国王が十二曲・楽工三十五人を献上したもので、曲は仏典の内容を演じるものであった。
  • 《高昌楽》は舞人二人、白の襖に錦の袖、赤の皮靴を着け、楽器編成(答臘鼓・腰鼓・雞婁鼓・羯鼓・簫・横笛・篳篥・琵琶・五弦琵琶・銅角・箜篌)を持つ。《亀茲楽》は舞人四人、紅の抹額に緋の襖で、楽器編成(豎箜篌・琵琶・五弦琵琶・笙・横笛・簫・篳篥・毛員鼓・都曇鼓・答臘鼓・腰鼓・羯鼓・雞婁鼓・銅拔・貝)を持つ。《疏勒楽》《康国楽》(急転する胡旋舞で知られる)《安国楽》もそれぞれ服装・楽器編成が記される。これら五国は西戎の楽である。
  • 《北狄楽》は鮮卑・吐谷渾・部落稽の三国の楽で、いずれも馬上の楽であり、鼓吹は元来軍旅の音楽であったため漢代以来北狄楽は鼓吹署に属した。後魏の楽府に始まる「北歌」(『魏史』の《真人代歌》)は現存五十三章のうち意味が判るものは《慕容可汗》《吐谷渾》《部落稽》《鉅鹿公主》《白浄王》《太子企喩》の六章のみで、他は「可汗」の語を多く含む鮮卑語の歌辞であり訳者も通じない。開元初、歌工の長孫元忠に問うたところ、高祖以来の代々の家業であり、その祖は侯将軍貴昌(并州人)から学び、貞観年間に貴昌が楽府に教えるよう詔されたという経緯が語られる。

散楽(百戯・雑技)と歌舞戯

  • 《散楽》は歴代にわたる非部伍の楽で、俳優の歌舞雑奏を含む。漢代の天子臨軒の宴での舎利獣・比目魚・霧・黄龍などの幻術や、綱渡りの倡女の芸などが「百戯」と総称された故事が引かれる。江左(南朝)に伝わった《高祇紫鹿》《跂行鱉食》《斉王卷衣》《綍鼠》《夏育扛鼎》《臣象行乳》《神亀抃戯背負霊嶽》《桂樹白雪》《画地成川》等の伎、後魏・北斉の《魚龍辟邪》《鹿馬仙車》《呑刀吐火》《剝車剝驢》《種瓜拔井》等の戯が列挙される。
  • 隋の煬帝は突厥単于の来朝の際、大合楽を催し胡人を驚かせ、以後端門で毎年正月に演じさせた。散楽・雑戯には幻術が多く、いずれも西域、特に天竺に由来するとされ、高宗はこれが風俗を驚かすとして西域からの流入を禁じた例が記される。橦木伎・盤舞(晋代に杯を加えた《杯盤舞》)・長蹻伎・擲倒伎・跳剣伎・呑剣伎・舞輪伎・透三峡伎・高祇伎・獼猴幢伎(緑竿)・弄碗珠伎・丹珠伎など、様々な曲芸の名称と由来が列挙される。
  • 歌舞戯には《大面》《撥頭》《踏搖娘》《窟﨧子》等があった。玄宗はこれらが正声でないとして教坊を禁中に設けて管轄させた。《大面》は北斉の蘭陵王長恭が美貌ゆえに仮面をつけて戦った故事にちなみ、周軍の金墉城攻めでの勇猛を舞にした《蘭陵王入陣曲》である。《撥頭》は西域由来で、猛獣に噛まれた父の仇を討つ子の姿を舞にしたもの。《踏搖娘》は隋末、酒好きで妻を殴る夫と、美貌で歌に優れその苦しみを訴えた妻の逸話に由来する。《窟﨧子》(《魁﨧子》とも)は人形を用いた喪家の楽が転じて宴会でも用いられるようになったもので、北斉の後主高緯が好み、高麗にも伝わったとされる。

八音の楽器

  • 八音(金・石・絲・竹・匏・土・革・木)に基づき、各種楽器の由来と形状が詳述される。匏の類として竽・笙(女媧氏の創造とされる)、竹の類として龠・簫(舜の創造とされる)・笛(漢の丘仲の創造)・篪・横笛・篳篥(胡から伝来し馬を驚かせる目的とされる)・柷(夏の始まりを象る)・敔(楽を止めるための虎形の楽器)・舂牘(睢陽城築城の逸話に由来するとされる)・拍板が説明される。
  • 絲の類として琴(伏羲の創造、五弦を武王が七弦に増やしたとされる)・擊琴(柳惲の創造)・瑟(大帝が素女に五十弦を弾かせ悲しみのあまり二十五弦に破ったとの伝説)・箏(蒙恬創造説を否定し秦声に由来するとされる)・築・琵琶(秦の長城の役に由来する説、烏孫への嫁入りの際の慰めとする説などが紹介される)・五弦琵琶・阮咸(武太后の代に蜀で古墓から発見され、竹林七賢図の阮咸の演奏姿にちなんで命名)・箜篌(漢武帝の楽人侯調あるいは侯輝の創造とされる各説)・豎箜篌(漢の霊帝が好んだ胡楽)・鳳首箜篌(開元中に鄭善子が進上)・「太一」「六弦」「天宝楽」などの新造楽器も紹介される。
  • 土の類として塤(埴を焼いて作る)・缶(西戎由来、秦王が澠池の会で撃った故事)、金の類として鐘(黄帝の工人垂の創造とされる)・鎛・編鐘・錞於(後周が蜀平定で獲得し斛斯徴が同定した故事)・鐃・銅磬・方響・銅拔(西戎・南蛮由来)・鉦、革の類として銅鼓(南夷由来)・磬(叔の創造とされる)・鼓(雷鼓・霊鼓・路鼓・足鼓・楹鼓・県鼓・建鼓・晋鼓・応鼓・鞞・鞉・腰鼓・斉鼓・簷鼓・羯鼓・都曇鼓・毛員鼓・答臘鼓・雞婁鼓・正鼓・和鼓・節鼓・撫拍)の各種が形状と由来とともに説明される。
  • 東夷の桃皮篳篥、西戎の銅角、南蛮の貝など四夷の楽器、また嘯葉(葉を銜えて吹く芸)なども紹介される。

楽懸(楽器配置)制度の変遷

  • 周制では天子は宮懸、諸侯は軒懸、大夫は曲懸、士は特懸を用いるとされ、孔子の堂や魏絳の家にも鐘磬があった故事、漢代には丞相田蚡や光武帝の東海恭王への賜与の例など、漢代にも臣下に金石の楽を許した記録がある。漢代に宮懸の制が用いられなかったとする説を、章帝・和帝の代の旋宮の記録や河間王の博采を根拠に否定する考証が示される。
  • 魏晋以降は四廂金石の架数が八架・十架・十六架と時代により異なり、梁の武帝が二十六架を用い、貞観初年には三十六架に増やし鼓吹熊羆桉十二を四隅に加えた。後魏・周・斉はいずれも二十六架、北周の建徳中には梁の三十六架に復し、隋の文帝は省き、煬帝はまた復した。
  • 楽懸の具体的な配置(簨・簴の飾り、崇牙、博山の飾り、建鼓の配置、鎛鐘・編鐘・編磬の方位配置等)が詳述される。唐礼では天子の朝廟に三十六架を用い、高宗が蓬萊宮を造営した際には七十二架に増やしたが、武后遷都の際に省かれた。皇后廟・郊祭は二十架で八佾の舞、先聖廟・皇太子廟は九架で六佾の舞とされた。
  • 宴享では《清楽》《西涼楽》の楽懸を左右の廂に対列させ、舞筵を間に設けた。もとは皇后の庭には絲管のみを設けたが、隋の大業年間に侈を尚び鐘磬を置くようになり、武太后の称制以降は鎛鐘まで用いるようになりそのまま改まらなかった。

昭宗期の楽懸の再興

  • 広明初年、黄巣の乱により両都が破壊され、宗廟も焼失し楽工も離散して楽器の多くが失われた。僖宗の還宮後に鐘懸の楽器を募集したが、何も残っていなかった。昭宗の即位に際し郊廟親祭の準備で楽懸の製作が図られたが、旧工に尋ねてもその制度を知る者がいなかった。
  • 修奉楽懸使の宰相張浚は太常の楽官を集めて詳議させたが、なお方法が得られなかった。太常博士の殷盈孫が『周官考工記』の欒・銑・於・鼓・鉦・舞・甬の記述を精査し、数日にわたる思案と算法による乗除計算の末に鎛鐘の軽重・高低を確定した。懸下の編鐘は正黄鐘九寸五分から下は登歌の倍応鐘三寸三分半まで計四十八等に整えられ、口・項の寸法や径・衡の周を図示して金工に鋳造させ、計二百四十口が完成した。処士の蕭承訓、梨園楽工の陳敬言、太楽令の李從周らが石磬と合わせて試聴し、八音がよく調和して観る者を驚かせたという。
  • 昭宗が殿庭でこれを試演させた際、廟が焼失していたため少府監の庁舎を仮の太廟としたが、その庭が狭かったため楽懸の架数について議論が生じた。張浚は奏議で、旧制では太廟・含元殿には三十六架、太清宮・南北郊・社稷等には二十架を用いてきた慣例を踏まえつつ、兵乱以来雅楽が衰微し財政も逼迫している現状に鑑み、古礼に基づく二十架を用いることを提案した。
  • その根拠として、魏の建国当初は楽器・伶人がなく、東晋の明帝・成帝の代を経てようやく金石の音が整ったこと、宋の文帝・孝武帝の代にも郊廟の楽が段階的に整備されたこと、北魏でも楽章の欠落が長く続いたこと、隋の文帝も即位九年後まで黄鐘一宮しか用いなかったこと、唐の高祖・太宗の代も雅楽の完成に数年を要したことなど、歴代の楽制整備が漸進的であったことを詳述した。
  • 『儀礼』の宮懸の制(鎛鐘二十架を十二辰の位に配し、甲丙庚壬に編鐘、乙丁辛癸に編磬をそれぞれ一架ずつ配して合計二十架とし、四隅に建鼓を建てて二十四気を象る)が周・漢・魏・晋・宋・斉の六朝で用いられてきたことを述べ、隋が陳平定後に梁の故事に倣い三十六架を採用し唐初もこれを踏襲した経緯、高宗が蓬萊宮で七十二架を用いたもののまもなく省いた経緯を挙げ、太廟の狭さも踏まえて二十架に定めることを提案し、許可された。
  • 古制では宮懸の下の編鐘は四架十六口であったが、近代では二十四口(正声十二・倍声十二)を用いるのが通例となり、登歌の一架も二十四鐘とされた。この整備により、久しく絶えていた雅楽が再び完備するに至った。