舊唐書卷三十一 志第七 禮儀七

舅・姨・嫂叔の服喪をめぐる議論(貞觀十四年)

  • 貞觀十四年、太宗は礼官の奏事のついでに喪服の話題に及び、「同じ竈で食事をする者にすら緦麻の恩があるのに、嫂と叔(兄嫁と夫の弟)には服喪の規定がない。また母の兄弟である舅と母の姉妹である姨は親疎がほぼ等しいのに服喪の軽重に差があるのは道理に合わない。学者を集めて詳しく議論させよ」と命じた。
  • 侍中の魏徴、礼部侍郎の令狐徳棻らが奏議した。礼は天から降ったものでも地から出たものでもなく人情に基づくものであるとした上で、舅は母の本族であり姨は他族の外戚であるから、経典に照らせば舅の方が重いはずなのに、実際は舅の服喪が短く姨の方が長いのは「名を循いて実を喪う」誤りだと指摘した。
  • また嫂叔について、『礼記』の「兄弟の子は猶子」「嫂叔の不服は推して遠ざけるため」という説を引きつつ、繼父と同居すれば期の喪、同居しなければ無服とする規定との整合性を問い、幼くして兄嫁に養われた者と兄嫁の情愛の深さを考えれば、生きている間は骨肉同然に愛しながら死後は疎遠に扱うのは道理に合わないと論じた。鄭仲虞・顏弘都・馬援・孔伋らが嫂に篤い礼を尽くした故事を挙げ、先覚者の志が制度に反映されてこなかったことを惜しんだ。
  • 結論として、曾祖父母の喪を齊衰三月から五月に、嫡子婦を大功から期に、衆子婦を小功から兄弟子婦と同じ大功九月に、嫂叔は無服から小功五月(相互服喪)に、弟の妻と夫の兄も小功五月に、舅は緦麻から姨と同じ小功に、それぞれ引き上げることを提案し、太宗はこれを許可した。

舅甥の服喪の不均衡と庶母の服(顯慶二年九月)

  • 顯慶二年九月、修礼官の長孫無忌らが奏上した。古礼では甥は舅に緦麻を服し、舅も甥に同様に服するはずだが、貞觀年間に八座が「舅の服は姨と同じく小功五月」と定めたにもかかわらず、律の疏では舅が甥に報いる服はなお緦麻三月のままで整合しておらず、甥が舅に小功で服する以上、舅も甥に小功で報いるべきだとして律疏の改訂を求めた。
  • あわせて、庶母について古礼では緦麻とされていたのが新礼で無服とされている点も、庶母の子(自分の異母兄弟)は杖期で服するのに自分は庶母に無服というのは道理に反するとして、緦麻の服を復すよう求めた。いずれも勅許された。

蕭嗣業の継母服喪問題(龍朔二年八月)

  • 龍朔二年八月、司文正卿の蕭嗣業の嫡継母が再嫁の後に死去し、蕭嗣業が心喪(解官せず心の中で服喪すること)を願い出た。令では継母が再嫁した場合や長子である場合は解官しないと定めるが、皇帝は「嫡母とはいえ実は継母であり、礼と情に照らして定制が必要」として司禮太常伯の隴西郡王李博乂らに議定を命じた。
  • 博乂らは、『喪服』において母の名は嫡・継・慈・養のいずれも含み、ただ出母(離縁された生母)のみ無服とされる点を確認し、再嫁した継母は父にとって既に義絶した存在であり、慈母・嫡母についても同様に再嫁すれば義絶するのだから心喪の対象とすべきではないと論じた。父が亡くなった後に再嫁した非実母について、後継者(承重者)は無服、それ以外の者は杖期とし、いずれも心喪は行わないという原則を提案した。あわせて、心喪の制度が本来服の欠けを補うためのものなのに令文では三年の齊斬の喪まで心喪の対象に含めてしまっている矛盾や、庶子が生母に服す緦麻三月の喪が令文に漏れている点も併せて修正すべきだと指摘した。
  • この案は文武九品以上の官に諮られ、司衛正卿房仁裕ら七百三十六人は司禮の案(蕭嗣業は解官不要)に賛成し、右金吾衛将軍薛孤吳仁ら二十六人は解官すべきと異論を唱えつつ、令文の矛盾(生母でない継母の再嫁でも解官させる不整合、杖期での解官の誤り、庶子の生母への緦麻服の欠落)の是正には賛同した。最終的に房仁裕らの議に従って令文を修正することとし、蕭嗣業自身は嫡母の改嫁ではないため解官不要と決した。

父在世時の母の喪を三年に(上元元年、開元五年の反対論)

  • 上元元年、天后(則天武后)が上表し、父が存命の場合の母への服喪が期(一年)に留まっているのは、母の慈愛の深さや養育の労苦に比して不十分であるとし、父在世時にも母の喪を三年とするよう求めた。高宗はこれを許可した。
  • 開元五年、右補闕の盧履冰が、この制度は本来の礼(父在世なら母の喪は一年で除霊し、三年は心喪とする)に反する則天武后の一時的な措置に過ぎないとして、旧章に戻すよう上言した。玄宗は百官に詳議を命じ、あわせて舅の服や嫂叔の服についても議論させた。
  • 刑部郎中の田再思は長文の議論を提出し、礼は時代とともに損益されるものであること、鄭玄・王肅ら諸儒の間でも三年の喪の月数などに異同があること、そして父在世時の母の喪を三年とする現行制度は既に高宗の代から四十年以上行われてきたものであり則天武后一代の私意によるものではないことを論じ、軽々に旧制へ戻すことに反対した。あわせて嫂叔の無服や舅の服の軽さについても、同爨の緦麻との類推や『詩経』『礼記』を引いて改める必要性を説いた。

盧履冰の再上疏と父在為母服の紛議

  • 議論は紛糾し決着しなかった。盧履冰は再度上疏し、『周易』家人卦や『喪服四制』の「家に二尊なし」の説を引いて父の権威を尊ぶべきことを説き、上元年間の制度は則天武后が権力簒奪を図る過程での便宜的措置に過ぎなかったとし、これを正さなければ後世に「婦が夫の政を奪う」弊害が再現しかねないと警告した。
  • 疏は取り上げられなかったため、盧履冰はさらに上奏し、夫婦の道が人倫の根本であること、『喪服四制』の「家に二尊なし」の理を改めて説いた。上元年間の措置は則天武后が僭位を図って先んじて自らを尊重させた策謀であったとし、その後の垂拱・載初年間の政変や中宗の廃立、韋后の専権に至る経緯を述べ、早く旧章に戻さねば後世への戒めにならないと訴えた。
  • あわせて反対論への逐一反論を行い、「罔極の恩」「喪は寧ろ戚(悲しみ)」「禽獸は母を識り父を識らず」「秦の焚書により礼経が散逸した」「伯叔母・姑姉妹の服と同じにすべき」「三王は礼を異にし五帝は楽を同じくせず」等の主張はいずれも道聴塗説であるとし、経義に基づいて逐一反駁した。『孝経』を引いて玄宗が韋氏の乱を平定した孝悌の徳を称え、天子の孝の徳が礼楽を通じて天下を治めることに繋がると論じた。

元行沖の議論と開元七年の勅

  • 左散騎常侍の元行沖は、天による父・夫の尊厳と、地位に応じた尊卑の別を説き、父在世時に母への服喪を軽くする(尊厭)のは情を通しつつ礼を減らすものであり、華夷や禽獣と人とを区別する所以であるとして、上元の制度を改めることに賛成した。姨の服が舅に加えられているのには理があるとし、嫂叔の不服は嫌疑を避けるためであって、同爨の緦麻を根拠に改めるのは古聖の意に反すると論じた。百官の議論はなお定まらなかった。
  • 開元七年八月、勅が下り、「子夏の伝が孔門の教えであることに鑑み、諸々の服紀の規定は改めて『喪服』の本文に一依すべきである」として、父在世時の母の喪を旧来の一年(心喪三年)に戻すことが定められた。しかしこの後も士大夫の家では、既に一年で禫を行い禫服六十日で心喪三年とする者、既に一年で禫服を三年続ける者、上元の制度どおり齊衰三年とする者と、実際の運用は分かれた。元行沖は「聖人が尊厭の礼を定めたのは母の恩の深さを知らぬからではなく、祖・禰を尊んで禽獣や夷狄と区別するためである。人情は動揺しやすく、一度秩序を乱せばそれを止められない」と述べた。

開元二十年の再定と開元二十三年の外親服の議論

  • 開元二十年、中書令の蕭嵩は学士とともに五礼を改修し、改めて上元の勅に基づき「父在世時の母の喪は齊衰三年」を正式に定め、これが頒布・施行された。
  • 開元二十三年、藉田の礼が終わった後、玄宗は服制になお不備がないか詳議するよう命じた。太常卿の韋縚は、『儀礼喪服』において外祖父母は尊きゆえに小功、舅・従母(姨)は名によって小功とされる一方、堂姨舅・舅母には全く服の規定がないという不均衡を指摘し、外祖父母を大功九月に、舅を姨と同等の小功五月に、堂姨舅・舅母を袒免に、それぞれ引き上げるよう提案し、尚書省で衆議を尽くすよう求めた。
  • 太子賓客の崔沔は反対の立場から、宗法における正家の道は父を尊び母を厭降することにあり、貞觀の改革以来「渭陽の恩」を広げすぎて孔子・子夏の古典的な礼から離れつつあると批判した。辛有が伊川で夷狄式の祭祀を見て「礼はまず滅びるだろう」と予言した故事を引き、また既に開元八年に古礼どおりとする勅が出ている以上、これを踏襲すべきだと主張した。
  • 職方郎中の韋述は長文の議論で、『儀礼喪服伝』の「外親の服は皆緦麻」という原則、外祖父母や従母への服が「尊」「名」による例外的な加重であることを説明し、外祖父母や舅を本宗と同列に扱えば宗法秩序自体を崩すことになると論じ、外祖父母・舅・従母の服をこれ以上引き上げれば、連鎖的に外曾祖父母・堂舅姨・外甥・外曾孫などにも服を広げねばならなくなる不合理を指摘して、『儀礼喪服』の規定をそのまま維持することを求めた。
  • 礼部員外郎の楊仲昌も、魏徴が既に舅の服を従母と同じ小功に引き上げた経緯を踏まえ、これ以上の改変は聖人の定めた礼を軽んじることになるとして反対し、子路が姉の喪を孔子の教えにより除いた故事を引いて礼を軽々に議論すべきでないと説いた。戸部郎中の楊伯成、左監門録事参軍の劉秩も崔沔らと同様の立場をとった。
  • 玄宗は自ら手勅を下し、舅が既に小功で服される以上、その妻である舅母にも緦麻の服を課すべきこと、堂姨舅にも袒免の服を課すべきことを説き、鄭玄の「同爨は緦」という注や『喪服伝』の「外親の服は皆緦」という原則を根拠に加重の是非をさらに検討させた。
  • 侍中の裴耀卿、中書令の張九齡、礼部尚書の李林甫らは、外甥が舅母に服せば舅母も外甥に報服せねばならず、さらに夫の姨舅への服、外甥の妻への服にまで範囲が広がりかねないと疑義を呈した。玄宗は重ねて手勅で、姨舅は姑伯と同等の近親であり、報服の対象が疎遠になるからといって親を軽んじるのは理に合わないと反論し、なお詳議を求めた。
  • 最終的に裴耀卿らは玄宗の意向を汲み、『大唐新礼』を基礎としつつ、舅を小功に、舅母を緦麻に、堂姨舅を袒免にそれぞれ定める案を奏上し、勅許された。
  • 天寶六載正月、出嫁した生母(実家を出て他家に嫁した後に離縁・再嫁等をした母)についても、喪を三年とすることが定められた。