舊唐書卷三十 宗廟(東都廟議・禘祫)

東都太廟の神主問題(建中・貞元期)

  • 建中元年(780年)3月、東都太廟に木主が欠けている問題について、①廟を存置し群主を遍く立てて時々饗する案、②廟と主を建てるが常には祭らず巡幸の時のみ饗する案、③廟のみ存置し主は瘞める案、の三論が出たが決着せず。
  • 貞元15年(799年)4月、膳部郎中の帰崇敬は「東都太廟にはそもそも木主を置くべきでない」と上疏した。虞主は桑、練主は栗を用い、栗主ができれば桑主は埋めるのが礼であり神は二主を持たないとし、中宗が武氏の木主を除いて廟のみ残したのは巡幸・遷都への備えであって、殷の頻繁な遷都でも都度神主を新造した例はないと論じた。
  • 長慶元年(821年)2月、庫部員外郎の李渤が太微宮の神主を太廟に祔すよう求め、東都留守の鄭絪に諮問された。鄭絪は「両朝が二廟に並び饗するのは礼にない、中宗の東都創廟は遷都の権宜であり、徳宗の代に既に告饗を停止した」として、光皇帝・睿宗の神主は祔すべきでないとし、遷置の礼は中書門下と礼官に委ねるべきと奏した。
  • 敕を受けた太常博士の王彦威らは、『尚書』召誥・洛誥の両都並建の故事を引いて「主は必ず廟にあるべき」と論じ、光皇帝・高宗・中宗・睿宗の神主を太廟夾室に、始封不遷の祖である景皇帝は太廟正室に、高祖・太宗・玄宗・粛宗・代宗は創業有功の親廟の祖として扱うべきとした。また徳明・興聖・献祖・懿祖の別廟についても、東都に旧廟がない光皇帝(懿祖)の神主を太廟夾室に権祔し、駕が東都にある際は上都の式に准じて別廟を営建すべきと建議した。だが尚書省の集議は郎吏と丞郎とで見解が割れ(太微宮に藏すべき、瘞埋すべき、闕主は新造すべき、輿駕東幸時のみ上都の神主を載せて行くべき等)、実施されなかった。

会昌期の東都太廟再建論争

  • 会昌5年(845年)8月、安史の乱以来太廟が軍営とされ神主が街巷に棄てられ太微宮に仮安置されている問題が改めて取り上げられ、太廟の修築の可否が公卿・礼官に諮問された。
  • 会昌6年(846年)3月、太常博士の鄭路らは、親尽の十二座(献祖宣皇帝・宣荘皇后・懿祖光皇帝・光懿皇后・文徳皇后・高宗天皇大帝・則天皇后・中宗大聖大昭孝皇帝・和思皇后・昭成皇后・孝敬皇帝・哀皇后)は太廟に遷して興聖廟に祔すべきだが東都に興聖廟がないため太廟夾室に権蔵すべきとし、題号のない十四座は旧太微宮内の空地に瘞めるべきと建議し、裁可された。
  • 太常博士の段瓌ら39人は「東都太廟の増修は前訓に乖く、天宝の乱で両京とも寇に陥ったが西都の廟貌は旧のままで東都は散亡した以上、九廟の霊も煩祀を望まない」として、廟は修すべきでなく主は瘞めるべきと主張した(虞主・練主の礼、漢の郡国廟の乱立への批判を含む)。
  • 工部尚書の薛元賞らは「廟は存置すべきだが主は置くべきでない」と折衷案を示した(『礼記』の「建国の神位、右に社稷、左に宗廟」を引き、両都に廟位はあってよいが饗祭は上京でのみ行うべきとし、太微宮の六主は東都太廟の再建を待って西夾室に遷し「閟して饗せず」とすべきと建議)。
  • 吏部郎中の鄭亜ら5人は「廟は修すべきだが主は瘞めるべきでない、両都に神主を並べるのは廟に二主ある義に触れる恐れがある」として、太微宮の神主を新廟の夾室に藏すべきと述べた。太学博士の鄭遂ら7人は「両都並設の廟に主を戴く制は『詩』『書』『礼』および漢の両史に久しく行われた例があり、廟は修めるべきで、旧主は瘞め、皇帝が洛に幸す際は斎車に載せて行くべき」と論じた。
  • 太常博士の顧徳章は詳細な経典考証(『詩』『書』『礼記』『左伝』に見える周・漢両都廟の史実、及び廟を修めるべきでない七つの根拠――廟は遷都に伴い立てるもので東都は遷都によらない、既に廃して久しく挙げていない、廟は虚しくできない、時ならずして主を作らない、遷主のみを載せて巡狩する、尊きに二上なし、『唐六典』に東都太廟の記載がない――)を展開し、東都太廟の再建に強く反対した。
  • 最終的に「公卿の議に従い、有司は日を選んで太廟を修め、留守の李石に監督させよ」との勅が下った(会昌6年3月)が、まもなく武宗の崩御により沙汰止みとなった。宣宗の即位後、太微宮の神主は東都太廟に迎えられ、禘祫の礼で太祖の前に合食させることで最終的に決着した。

禘祫の礼と配享功臣

  • 『貞観礼』では祫享(合食)でのみ功臣を廟庭に配享し、禘享では配さない制であったが、貞観16年(642年)、太常卿の韋挺ら18人の議により「禘・時享には功臣を配さず、祫にのみ配する」(周礼の六功之官を大烝に配する故事、鄭学説)と改めて確認された。開元中の改修礼では、禘祫のいずれにも功臣を配することに変更された。
  • 上元3年(676年)、高宗の祫享に際し、三年一祫五年一禘の計算方法(『礼緯』と『公羊伝』の記述の食い違い)を巡り、太学博士の史璨らが『春秋』の記事(僖公・文公・昭公の禘祫の記録)に基づき実証的に年次の規則を確定した。
  • 開元6年(718年)、睿宗の喪明けの祫享以降、禘と祫をそれぞれ独立に3年・5年で計算していたため、開元27年(739年)には同年に禘と祫が重なる不整合が生じた。太常は「禘祫は法天象閏の理に基づき通算すべき」として、鄭玄・高堂隆説(先に三年、後に二年の間隔)と徐邈説(禘祫の間隔を常に均等の三十月とする)を比較検討し、より均等な徐邈説を採用した(開元27年夏の禘を起点に、以後五年ごとに禘祫が交互に巡る計算法を確定)。礼部員外郎の崔宗之・集賢学士の陸善経の詳議、太常卿の韋絛の上奏を経て制可された。
  • 天宝8載(749年)閏6月、禘祫は太清宮の聖祖(老子)の前でも位を序して行う旨の勅が出た(時享は禘祫の年には停め、素饌と焼香で代える)。

太祖の東向位と献祖・懿祖の処遇(建中〜貞元の大論争)

  • 建中2年(781年)9月、太常博士の陳京は、祫祭で献祖・懿祖の神主も合食させる際の位置づけについて、東晋の別廟制(征西等四府君を別廟とする故事)に倣い、献祖・懿祖のために別廟(興聖廟)を建て、太祖景皇帝を太廟で東向の尊位に正すことを建議した。
  • 礼儀使の顔真卿は、献祖・懿祖を永く西夾室に閉じる説、両祖と太祖を並べて昭穆とし東向を空位とする説、両祖を徳明皇帝廟に遷す説の三案をいずれも不十分とし、東晋の蔡謨の議に倣い、祫享の日には一時的に献祖を東向とし、太祖以下は昭穆の列に戻す案を建議した。
  • 貞元7年(791年)11月、太常卿の裴郁は「太祖の上に献祖・懿祖があるのは異例であり正すべき」として百官の議を求めた。太子左庶子の李嶸ら7人は「献祖・懿祖は太祖以前の親尽の神主であり禘祫の対象外(漢の太上皇の例に准える)」として西夾室への安置を支持した。吏部郎中の柳冕ら12人は「別廟(先公の祧)を建てて祀るべき」と主張した。工部郎中の張薦らは「献祖・懿祖も太祖と並び昭穆の列に置き、東向を空位のままとすべき」と主張した。司勲員外郎の裴樞は「石室を園寝に建てて遷すべき」との案を示した。考功員外郎の陳京は自説(徳明・興聖廟への合祀)を再論した。京兆少尹の韋武、同官県尉の仲子陵らもそれぞれ独自の見解を述べた。
  • 貞元11年(795年)7月、左司郎中の陸淳は諸議を「太祖の位を正すことに異論はない」「献祖・懿祖の処遇には夾室・別廟・園寝・興聖廟祔の四案がある」と整理し、「興聖廟へ祔し禘祫の年のみ祭る」案が最も妥当と結論した。
  • 貞元19年(803年)3月、給事中の陳京の再提起を経て、戸部尚書の王紹ら55人の議により、献祖・懿祖の神主を徳明・興聖廟へ正式に遷し、景皇帝を太廟の東向位に正すことが最終的に決定・実施された。詔では「二十五年にわたる議論の末、公卿の議を博く採り太祖の位を正した」旨が述べられた。

その他の細目

  • 会昌6年(846年)10月、太常礼院は穆宗・敬宗・文宗・武宗室への祝文の呼称(皇兄と称するのは不適当)を「嗣皇帝臣某」に統一した。貞元12年(796年)、祫祭・親郊の際に伐国の宝を中使が奉じて壇所へ引く従来の慣例を、武功を誇示する重大事として中使ではなく礼官が扱うよう改めた。
  • 各廟の配享功臣の一覧:高祖廟=淮安王神通・河間王孝恭・鄖国公殷開山・渝国公劉政会(のち裴寂・劉文静を追加)、太宗廟=梁国公房玄齢・莱国公杜如晦・申国公高士廉(のち長孫無忌・李靖・杜如晦を追加)、高宗廟=英国公李勣・北平県公張行成・高唐県公馬周(のち褚遂良・高季輔・劉仁軌を追加)、中宗廟=平陽郡王敬暉・扶陽郡王桓彦範・南陽郡王袁恕己(のち狄仁傑・魏元忠・王同皎ら11人を追加)、睿宗廟=許国公蘇瑰・徐国公劉幽求。
  • 天宝6載(747年)正月、章懐・節愍・恵荘・恵文・恵宣太子と隠太子・懿徳太子を合祀する「七太子廟」を設置。太廟に内官を置き、天宝11載閏3月には毎月朔望に食を薦める制、5日ごとの室門灑掃の制が定められた。玄宗の子の静徳太子廟、粛宗の子の恭懿太子廟も別に置かれた。孝敬廟は東京太廟院内、貞順皇后・譲皇帝廟は京中にあり、いずれも四時に祭祀された。