隋代の明堂論議
- 隋の開皇年間、将作大匠の宇文愷が『月令』に基づき明堂の木製模型を作って献上し、文帝は京城の安業里に造営地を定めたが、諸儒の論争がまとまらず中止された。
- 煬帝の代にも宇文愷が模型と議状を再び献上したが、遷都と土木事業のため実現しなかった。隋代を通じ、季秋の大享は雩壇で行われるにとどまった。
高祖・太宗期の議論(孔穎達・魏徵)
- 高祖は受禅後まもなく儀礼を整える余裕がなく、太宗が儒官に制度を議させた。
- 貞観5年(631年)、太子中允の孔穎達は、礼部尚書盧寛・国子助教劉伯莊らの「崑崙道を上って層の上で天を祭る」「左右に閣道を作り楼に登って祭る」という案を批判した。基上を堂、楼上を観と呼ぶのが通例で「重楼の上に堂あり」という前例はないとし、『孝経』の「宗祀文王於明堂」も楼を指す語ではないと論じた。また質素を尊ぶ明堂の本義に反すると主張し、群臣による再審議を求めた。
- 侍中の魏徵は、上円下方・複廟重屋の古制を踏まえつつ、時代により祭祀の場が定まらなかった経緯(裴頠が異論百出のため一殿に簡略化し、宋・斉・梁・陳もこれを踏襲した)を述べ、五室重屋・上円下方案(下室は布政の場、上堂は祭天の場)を提案した。規模は時宜に応じ定めるべきとしたが、議論は決着しなかった。
永徽・顕慶期の詳定
- 貞観17年(643年)5月、秘書監の顔師古は、明堂の古制は文献に乏しく諸説紛々であるとした上で、『周書』『戴礼』『周官』『尸子』等を引き、路寝(天子の常居)と同一の建物であったと論証した。漢以降(武帝・成帝・平帝・後漢)の諸家(孔牢・金褒・蔡邕・鄭玄・淳於登・潁容)の説も一致せず、独自の考証は当てにならないとし、宮闕に近い場所に簡素に造営すべきと提言した。上表でも「五帝以降、両漢以前、いずれも制度は一様でない。陛下の裁断で大唐の明堂を作ればよく、戸牖の数や階庭の広狭を論じる必要はない」と述べたが、遼海への出兵のため造営は見送られた。
- 永徽2年(651年)7月、勅により諸曹尚書・左右丞侍郎・太常・国子秘書官・弘文館学士らに明堂制度の詳議を命じた。太常博士の柳宣は鄭玄説に従い五室案、内直丞の孔志約は『大戴礼』・盧植・蔡邕説に従い九室案を主張し、曹王友の趙慈皓・秘書郎の薛文思らがそれぞれ図を作成するなど諸儒の論争が続いた。高宗は当初九室案を支持した。
- 翌年6月、内示の九室様式案が示され、有司が損益を上奏した(堂基三重=上基方九雉八角高一尺・中基方三百尺高一筵・下基方三百六十尺高一丈二尺、室は各方三筵で四闥八窗、九室は太室方六丈、四隅の室(左右房)各方二丈四尺、四面の青陽・明堂・総章・玄堂室は各長六丈闊二丈四尺、通巷幅一丈八尺、総方一百四十四尺=坤の策、梁の径二百一十六尺=乾の策、外柱三十六本・柱ごとに十梁、内七間、柱根より梁まで高三丈、梁より屋の峻起まで計八十一尺、上円下方・飛簷応規、屋蓋は『考工記』に基づき四阿・重簷・鴟尾を太廟に准じる、堂は四向とも白色を基調に方色を配する等)。辟雍は水広二十四歩・外周に円堤を巡らせる案、殿垣は太廟南門の規模に準拠し四門八観・三重の魏闕を設ける案とされた。
- 尚書左僕射の于志寧らは九室案、太常博士の唐は五室案を主張して対立した。高宗は観徳殿で両案を並べて公卿に見せ、工部尚書の閻立徳は「九室は暗く、五室は明るい、いずれも典拠あり、聖慮の裁断次第」と答えた。上は五室が便利と考えたが議論はまとまらず、いったん中止された。
総章の詔と造営決定
- 乾封2年(667年)2月、詔により議論は概ね定まり、改元して総章とし万年県の一部を明堂県とした。翌年3月、規模を具体的に定めた詔が下された。
明堂の規模と象徴数理
- 明堂院は各面三百六十歩(乾坤の策の合計三百六十に象る)とし、中央に堂を置く。院回りは各面三門・五間(一年四時・一時三月・陰陽の数五に象る)で、四隅に重楼を置き、四墉は各方色とする。
- 基は八面(八方の玉琮に象る)、高一丈二尺(陰陽十二律呂)、径二百八十尺(漢の九会の数)。各面三階・周回十二階・各階二十五級(天の三階・地の十二辰・従凡至聖二十五等に象る)。
- 堂は上円下方、九間(各広一丈九尺、九州・陰数十に象る)。周回十二門(高一丈七尺・闊一丈三尺、月数・陰陽数)。周回二十四窗(高一丈三尺・闊一丈一尺・二十三櫺・二十四明、二十四気に象る)。
- 堂心に八柱(各長五十五尺=大衍の数)、外に四柱(四輔星)、以下第一重二十柱・第二重二十八柱(二十八宿)・第三重三十二柱(八節八政八風八音)、外周三十六柱(一年三十六旬)、柱の長短三等(三才)、総計柱一百二十本(天子の三公九卿二十七大夫八十一元士の合計)、上檻二百四柱(坤の策・九会の数)。
- 重楣二百一十六条(乾の策)、大小の節級拱六千三百四十五枚(会月の数)、重幹四百八十九枚(章月と閏月の合計)、下璟七十二枚(七十二候)、上璟八十四枚、枅六十枚(太歳の数)、連栱三百六十枚(周天の度)、小梁六十枚(六十甲子)、牽二百二十八枚(章中の数)、方衡十五重(五行の生数)、南北大梁二根(両儀)、陽馬三十六道(三十六節)、椽二千九百九十根、大梠七十二条(一年の風数)、飛簷椽七百二十九枚。堂簷の径二百八十八尺(乾の策と七十二候の合計)、堂上棟は基上面より九十尺、簷は地より五十五尺(大衍の数)。上は清陽の玉葉で覆う。
- 詔下後も議論はまとまらず、結局高宗の代には造営されなかった。
則天の萬象神宮建設
- 則天は臨朝後、北門学士と協議し諸儒の言を退けて造営に踏み切った。垂拱3年(687年)春、東都の乾元殿を壊してその跡地に着工。垂拱4年(688年)正月5日に完成した。高さ二百九十四尺、東西南北各三百尺。三層構造(下層は四時、中層は十二辰の円蓋で九龍が支える、上層は二十四気の円蓋)。中心に十囲の巨木が上下を貫き、鉄索で結束。屋上に金塗りの鸞鷟を飾り、瓦は木製に夾紵漆を施し、下に鉄渠を設け辟雍に見立てた。「万象神宮」と号し、河南県を合宮県と改称。詔で自らを黄軒・丹陵・虞・禹・殷・周の先例になぞらえた。
- 永昌元年(689年)正月元日、初めて親祭。九条を頒布して百官を訓した。東都の婦人・父老を招き入れ酒食を賜り、吐蕃等諸夷も祝賀の使者を派遣した。載初元年(690年)冬、周正を用いて再び親祭・改元。
- 天授2年(691年)正月、明堂で天地合祭を行い周文王・武氏先考先妣を配し百神も従祀したが、春官郎中の韋叔夏は「明堂の正しい祭祀は五帝のみで、天地の合祭・百神の従祀は権宜の措置にすぎない」と上奏し、以後は元日には天地大神と帝后のみを祀り、五嶽以下は冬夏二至に方丘・円丘で従祀することとなった。
- 則天は明堂の後方に高さ百余尺の天堂を築いて仏像を安置しようとしたが大風で倒壊、再建中に証聖元年(695年)正月、仏堂が火災となり明堂にも延焼して両堂とも焼失した。宰相の姚璹は「これは人火であり天災ではない」と述べ、則天は文武百官に上封事を求めた。左拾遺の劉承慶は上疏し、天火・人火の別、災異への対処法(省身修徳)を説き、明堂焼失を機に仏舎造営を止めるべきと諫めた。
- 則天は旧に倣い明堂を再建(高さ・広さは同じ)、天冊萬歳2年(696年)3月完成し「通天宮」と号した。改元して萬歳通天。同年、九州の鼎を鋳造し明堂の庭に方位に応じて配置した(神都鼎=高一丈八尺・受一千八百石。冀州鼎「武興」・雍州「長安」・兗州「日観」・青州「少陽」・徐州「東原」・揚州「江都」・荊州「江陵」・梁州「成都」の八州鼎は各高一丈四尺・受一千二百石)。司農卿の宗晋卿が九鼎使となり銅五十六万七百十二斤を使用した。則天自ら『曳鼎歌』を作った。金塗りの提案は姚璹の反対で中止された。同年9月、契丹平定を機に通天宮で大享、改元して神功。
告朔の礼をめぐる論争
- 聖暦元年(698年)正月、明堂で毎月一日に告朔の礼を行う制を定めたが、司礼博士の辟閭仁諝は「経史に天子の毎月告朔の文はなく、鄭玄注は誤りである」として告朔の廃止を上奏した。
- これに対し鳳閣侍郎の王方慶は『春秋』『周礼』等を引き、天子にも毎月の告朔・聴朔の礼があると反論し、一年に十八度明堂に入るという先儒の説(大享1度・毎月告朔12度・四時迎気4度・巡狩の年1度)を紹介した。
- 成均博士の呉揚吾・太学博士の郭山惲らの議を経て、四時の孟月と季夏に告朔を行うことで決着した。
- 長安4年(704年)、元日は明堂で朝賀を受けるが時令を読む儀は停止と定められた。中宗即位後の神龍元年(705年)9月、高宗を配して明堂で天地合祭。翌年、季秋の大享は円丘で行う旧に復した。
開元年間の乾元殿への改称
- 開元2年(714年)8月、太子賓客の薛謙光が『九鼎銘』を献上した(則天御撰の蔡州鼎銘を含む)。開元5年(717年)、東都に幸し大享を行おうとした際、太常少卿の王仁忠・博士の馮宗・陳貞節らは、則天が造った明堂が丙巳の地にない、木を彫り土に文様を施すなど典制に反すると指摘し、改築を建議した。
- 刑部尚書の王志愔らの奏に基づき詔が下され、明堂の号を廃して旧の「乾元殿」に復し、以後は元日・冬至の朝賀は乾元殿、季秋の大享は円丘で行うこととなった。開元10年(722年)、一時「明堂」の名に戻したが享祀の礼は行わなかった。開元25年(737年)、駕が西京にあった際、将作大匠の康紵素に命じて東都の建物を取り壊させたが、労力を惜しんで上層のみを取り壊し(旧制より9尺低く)、柱心木を除いて平座上に八角楼を置き、瓦を葺いて「乾元殿」の名に復した。