舊唐書卷二十七 封禪

隋代の封禅

  • 開皇14年(594年)、晋王広らが封禅を求め、文帝は牛弘・辛彦之・許善心らに儀注を作らせた。開皇15年(595年)、兗州に行幸し泰山の麓で南郊の礼に準じて壇を設け祭ったが、登山はせず還った。

貞観年間の議論(太宗・魏徵)

  • 貞観6年(632年)、突厥平定と豊作を機に群臣が封禅を求めたが、太宗は「天下太平・家給人足であれば封禅せずとも堯舜に比せられる。百姓が足りず夷狄が侵せば封禅しても桀紂と変わらない」「至敬不壇、掃地して祭れば誠は表せる」と述べて退けた。侍中の王珪、秘書監の魏徵(隋末の混乱後の民の疲弊を理由に反対)が賛同したが、群臣の上表は止まなかった。中書侍郎の杜正倫を泰山に派遣し漢代の封禅壇跡を調査させたが、水害のため中止となった。
  • 貞観11年(637年)、再び議が起こり、国子博士の劉伯莊・睦州刺史の徐令言らが上奏したが意見が分かれた。太宗は顔師古・朱子奢らに諸儒と参議させ、房玄齡・魏徵・楊師道が異論の中から採用すべき案をまとめて上奏した(昊天上帝壇・玉牒・玉策・金匱・方石再累・泰山上円壇・土封・玉璽・立碑・告至壇・距石廃止等の各細目を含む)。
  • 貞観15年(641年)、太常卿の韋挺・礼部侍郎の令狐徳棻を封禅使とし詳定させたが、なお論者の異見があり、顔師古が上書した。洛陽宮に至った際に彗星の異変があり、詔で中止された。

高宗の封泰山(乾封)

  • 麟徳2年(665年)2月、東巡を開始し、乾封元年(666年)正月戊辰朔に儀式を挙行する予定で儀注を定めた(前七日の誓戒、圓壇三成十二階、玉策・玉匱・金匱・石感・石検・距石の細目、登封壇径五丈高九尺、降禅壇は方壇八隅一成八陛とする等)。
  • 有司の当初案は封祀に高祖・太宗を、禅祭に太穆皇后・文徳皇后を配し、公卿を亜献・終献とする案であったが、皇后(武氏)は上表し、地祇の祭祀は男性外臣ではなく内命婦が行うべきと主張した。結果、地祇・梁甫の祭は皇后が亜献、諸王大妃が終献となった。
  • 前羅文府果毅の李敬貞が明水(陰鑑で月光から採る水)の作法を『淮南子』『論衡』『漢旧儀』『周礼・考工記』を引いて考証し、太常はその採用を認めた。
  • 制により祭器を瓦樽秸席から茵褥罍爵へ改め、諸郊祀もこれに準じることとした。
  • 乾封3年(668年)正月、高宗が山下で昊天上帝を親祀。封礼の壇は円丘の儀に准じ、玉策を石感に納め五色の土で封じた(円径一丈二尺・高九尺)。翌日社首山で地祇を祭り、皇后が亜献、越国太妃の燕氏が終献。朝覲壇での朝賀の後、大赦・改元。皇后が六宮を率いて壇に昇る儀に百官の批判もあった。封祀壇を舞鶴台、介丘壇を万歳台、降禅壇を景雲台と命名した。

嵩山封禅の計画(未実施)と則天の嵩山封禅

  • 永淳元年(682年)、洛州嵩山南に崇陽県を設置、翌年奉天宮に行幸し、嵩山での封禅を計画した。国子司業の李行偉・考工員外郎の賈大隠・太常博士の韋叔夏・裴守貞・輔抱素らが儀注を詳定した(円丘制の封祀壇、八角方壇の禅祭壇、朝覲壇の規模、玉帛の品目等)が、高宗の不予により中止となった。
  • 証聖元年(695年)、則天は嵩山を「神岳」、山神を「天中王」(夫人は「霊妃」)と号し、天冊万歳2年(696年)臘月に登封の礼を行い改元「万歳登封」、嵩陽県を登封県、陽城県を告成県と改称した。3日後に少室山で禅祭、さらに2日後に朝覲壇で朝賀した。神祇の加護に感謝し天中王を「神岳天中皇帝」、霊妃を「天中皇后」、夏后啓を「斉聖皇帝」に、啓母神を「玉京太后」、少室阿姨神を「金闕夫人」、王子晋を「昇仙太子」として廟を立てた。則天自ら『昇中述志碑』を撰した。

玄宗の封泰山(開元)

  • 開元12年(724年)、百官・皇親・文学の士から封禅を求める上書が千余篇に及んだが玄宗は許さず。中書令の張説の固請により詔を下し、開元13年(725年)11月10日に泰山で行うことを定めた。
  • 儀注編纂は張説・徐堅・韋絛・康子元・侯行果らが担当した。禅地祇の配祀を巡り、張説は「乾封の旧儀では文徳皇后・天后・越国太妃が女性として関与し、これが武后簒奪の遠因になった」として睿宗を配することを提案し、採用された。
  • 燔柴の先後(祭前か祭後か)を巡る論争があった。許敬宗(顕慶年間)は燔柴を祭りの初めに置く説を主張していたが、徐堅・康子元は晋・宋・斉・梁・後周・隋の故事を検証し祭後説を主張した。考功員外郎の趙冬曦・太学博士の侯行果は先燔説を、張説は判断を保留して「聖意に委ねる」と述べ、玄宗は後燔・先奠を採用した。太常卿の甯王憲もこれに従うことを求め、以後の郊壇の祭も先に璧を奠じ後に柴を焚き瘞埋する順とされた。
  • 四門助教の施敬本は旧封禅礼の八条を批判した(侍中による沃盥は本来鬱人の職掌である、太祝の身分が低すぎる、謁者の身分が軽すぎる、尚書令ではなく中書令が玉牒を奉ずべき等)。張説・徐堅が対応し、うち4条は既に改定済みとされた。
  • 開元13年(725年)11月丙戌、泰山に到着。玄宗は当初、初献のみ山上で行い亜献・終献は山下で行う予定であったが、礼官学士の賀知章の進言(昊天上帝は君位、五方時帝は臣位であり、三献をすべて一所で行うのが変礼の要)により、三献すべてを山上で行い、五方帝以下は山下壇で行うこととした。
  • 玉牒の文を従来は秘匿していたが、玄宗は「蒼生のための祈福であり秘するところはない」として百官に公開した(文面:「有唐嗣天子臣某、敢昭告於昊天上帝……封祀岱岳、謝成於天。子孫百禄、蒼生受福」)。
  • 庚寅、山上の封台前壇で昊天上帝を祀り、高祖神堯皇帝を配享した。邠王守礼が亜献、甯王憲が終献。癸巳、張説が「天賜皇帝太一神策」と称し、玉牒・玉策を石感に納め金泥で封じ、燎壇で焚焼した。辛卯、社首の泰折壇で地祇を祀り睿宗大聖貞皇帝を配祀、五色雲・日重輪の瑞が現れた。壬辰、朝覲壇で百官・二王後・孔子後・諸方朝集使・戎狄夷蛮羌胡(突厥頡利発・契丹・奚・大食・謝褷・五天十姓・崑崙・日本・新羅・靺鞨・高麗・百済・十姓摩阿史那興昔可汗ら)が参列した。泰山神を「天斉王」に封じ、近山二十戸を復して祠を守らせた。
  • 玄宗は『紀太山銘』を撰し山頂の石壁に自ら刻ませた(不徳を恐れつつ天の垂祐と祖宗の余慶に感謝し、四海会同・歳穀嘉熟による封禅の由来と、高祖・太宗・高宗・中宗・睿宗の功業を讃え、慈・倹・謙の三徳を守る旨を述べる内容)。中書令の張説が『封祀壇頌』、侍中の源乾曜が『社首壇頌』、礼部尚書の蘇頲が『朝覲壇頌』を撰した。

華岳の金天王封号

  • 玄宗は乙酉歳生まれで華岳を本命とし、先天2年(713年)8月、華岳神を「金天王」に封じた。開元10年(722年)、東都行幸を機に華岳祠前に高さ五十余尺の碑を建て、山上に道士観を置いた。天宝9載(750年)、華岳での封禅を計画し御史大夫の王鉷に険路の開鑿を命じたが、祠堂の火災により中止となった。