舊唐書卷三 太宗下
唐の第二代皇帝、太宗李世民(598年–649年)の治世後半を記す(続き)。東突厥の頡利可汗を捕らえて「天可汗」の号を受け、吐谷渾・高昌・亀茲を平定するなど対外的な威勢を極めた一方、皇后長孫氏や重臣たちの死、皇太子承乾の廃嫡といった身内の困難にも見舞われた。晩年には高麗遠征を自ら指揮したが安市城を陥せず退いた。貞観23年(649年)に崩御し、廟号を太宗とされた。
年表(14件)
- 貞観4年3月630年張宝相が頡利可汗を生擒し東突厥を平定する
- 貞観4年4月630年西北諸蕃から「天可汗」の号を奉られる
- 貞観9年5月635年太上皇(高祖)が大安宮で崩御する
- 貞観9年5月635年李靖が吐谷渾を平定し王慕容伏允を捕らえる
- 貞観10年6月636年皇后長孫氏が立政殿で崩御する
- 貞観14年8月640年侯君集が高昌を平定し西州を置く
- 貞観17年正月643年魏徴が薨去する
- 貞観17年4月643年皇太子承乾を廃して庶人とし、晋王治を皇太子に立てる
- 貞観18年11月644年李勣・張亮を遣わし高麗討伐に向かわせる
- 貞観19年5月645年太宗自ら遼東城を攻略する
- 貞観19年6月645年安市城救援に来た高麗軍15万を大破する
- 貞観19年9月645年安市城を陥せず班師する
- 貞観22年閏月648年阿史那社爾が亀茲を平定する
- 貞観23年5月649年含風殿で崩御、享年52
貞觀四年
- 正月乙亥、定襄道行軍総管李靖が突厥を大破し、隋の蕭皇后と煬帝の孫楊正道を捕らえ京師へ送る。癸巳、武徳殿北院で火災。
- 2月己亥、温湯に幸す。甲辰、李靖が陰山で再び突厥を破り、頡利可汗は軽騎で遠遁。甲寅、大赦し5日間の酺を賜う。戴冑を検校吏部尚書・参預朝政、蕭瑀を御史大夫、温彦博を中書令とする。
- 3月庚辰、張宝相が頡利可汗を生擒し京師に献ず。甲申、杜如晦が薨去。甲午、頡利の俘虜を太廟に告げる。
- 夏4月丁酉、順天門で頡利の献捷式。以後、西北諸蕃が太宗に「天可汗」の尊号を請い、璽書で君長を冊命する際にはこれを併称した。
- 秋7月甲子朔、日食。太宗が房玄齡・蕭瑀に隋文帝の政治を問い、房らが「克己復礼、勤労して政を思い、日昃に及ぶまで朝に座した励精の主」と評すると、太宗は「隋文帝は至察だが心が明でなかった。心が暗ければ通じず、至察であれば物を疑いやすい。孤児寡婦を欺いて帝位を得たため群下を信任せず万事を自ら決断し、労苦しても理に適わないことも多かった。朝臣も直言せず宰相以下は承るのみだった。朕は天下の広さを一人の慮りで独断できぬと考え、天下の才を選び委任責成する」と答え、詔勅が時宜に適わなければ執奏し盲従してはならぬと有司に命じた。
- 8月丙午、三品以上は紫服、五品以上は緋服、六・七品は緑、八・九品は青とし婦人は夫の色に従う旨の詔。甲寅、李靖を尚書左僕射とする。
- 9月庚午、長城の南の骸骨を埋葬し祭祀させる。壬午、古の明王聖帝・賢臣烈士の墳墓での芻牧を禁じ春秋に祭祀させる。
- 冬10月壬辰、隴州に幸し隴・岐二州を曲赦、一年の賦役免除。辛丑、貴泉谷で校猟。甲辰、魚龍川で校猟し自ら鹿を射て大安宮に献ず。甲子、隴州より還る。戊寅、罪人の背への鞭打ちを禁じる(明堂の孔穴・針灸の場所であるため)。侯君集が参議朝政。
- 12月辛亥、淮安王李神通が薨去。甲寅、高昌王麴文泰が来朝。
- この年、死刑の断罪は29人のみで、刑がほぼ用いられぬに至った。東は海、南は嶺に至るまで戸を閉ざさず旅人も食糧を携えぬほど治安が良かった。
貞觀五年
- 正月癸酉、昆明池で大蒐、蕃夷君長も皆従う。丙子、大安宮(太上皇)に自ら獲物を献ず。己卯、左蔵庫に幸し三品以上に帛を賜う。癸未、朝集使が封禅を請う。己酉、皇弟らを鄶王・譙王・魏王・許王・密王に、庚戌、皇子らを梁王・漢王・郯王・晋王・申王・江王・代王に封じる。
- 夏4月壬辰、代王簡が薨去。隋末の混乱で突厥に没した中国人男女8万人を金帛で購い家族に還す。
- 6月甲寅、李綱が薨去。
- 7月甲辰、高麗が築いた京観(隋の戦没者の遺骸を積んだ塚)を毀させ隋人の骸骨を収め祭って葬る。戊申、死刑には三覆奏(京師では五覆奏)を必須とし、執行の日は尚食は蔬食とし内教坊・太常は音楽を止める。
- 9月乙丑、群官に武徳殿で大射を賜う。
- 冬10月、阿史那什鉢苾が卒す。
- 12月壬寅、温湯に幸す。癸卯、驪山で猟。丙午、新豊の高齢者に帛を賜う。戊申、温湯より還る。
貞觀六年
- 正月乙卯朔、日食。
- 2月丙戌、三師官員を置く。戊子、律学を初めて置く。
- 3月戊辰、九成宮に幸す。
- 6月己亥、酆王元亨が薨去。辛亥、江王囂が薨去。
- 冬10月乙卯、九成宮より還る。
- 12月辛未、囚徒を親録し死罪290人を家に帰し翌年秋末に刑を受けさせるとし、期日に皆自ら出頭したため悉く赦した。この年、党項羌の内属者は前後30万口。
貞觀七年
- 正月戊子、宇文化及の弑逆に関わった智及・司馬徳戡・裴虔通ら多数を重典に処し子孫を禁錮とする詔。この日、太宗は《破陣楽舞図》を制作。辛丑、京城に3日間の酺を賜う。丁卯、土が降る(黄砂)。乙酉、薛延陀が来朝。庚寅、魏徴を侍中とする。癸巳、李淳風が渾天黄道儀を鋳造し奏上、凝暉閣に置く。
- 夏5月癸未、九成宮に幸す。
- 8月、山東・河南の30州が大水、賑恤の使を遣わす。
- 冬10月庚申、九成宮より還る。
- 11月丁丑、新定《五経》を頒布。壬辰、長孫無忌を司空とする。
- 12月丙辰、少陵原で狩し、杜如晦・杜淹・李綱の墓に少牢を以て祭る詔。
貞觀八年
- 正月癸未、阿史那吐苾が卒す。辛丑、張士貴が東西五洞の反獠を討平。壬寅、李靖・蕭瑀・楊恭仁・王珪・韋挺・皇甫無逸・李襲誉・張亮・李大亮・竇誕・杜正倫・劉徳威・趙弘智らを四方へ遣わし風俗を視察させる。
- 2月乙巳、皇太子(承乾)が元服。丙午、天下に3日間の酺を賜う。
- 3月庚辰、九成宮に幸す。
- 5月辛未朔、日食。丁丑、太宗が初めて翼善冠を着け貴臣は進徳冠を着ける。
- 7月、雲麾将軍の階を従三品とする。隴右で山崩れ、大蛇が屢々現れる。山東・河南・淮南で大水、賑恤の使を遣わす。
- 8月甲子、虚・危宿に彗星現れ氐宿を経て11月上旬に消える。
- 9月丁丑、皇太子が来朝。
- 冬10月、段志玄が吐谷渾を撃破し800余里追撃。甲子、九成宮より還る。
- 11月辛未、李靖が病により辞官、特進を授かる。丁亥、吐谷渾が涼州を侵す。己丑、吐谷渾が使者趙徳道を拘束。
- 12月辛丑、李靖・侯君集・李道宗・李大亮を大総管とし分道して吐谷渾を討たせる。壬子、越王泰を雍州牧とする。乙卯、太上皇に従い城西で閲武。この年、亀茲・吐蕃・高昌・女国・石国が朝貢。
貞觀九年
- 3月、洮州羌が叛き刺史孔長秀を殺す。壬午、大赦。各郷に長1人・佐2人を置く。乙酉、高甑生が叛羌を大破。庚寅、天下の戸を三等から九等に分ける敕。
- 夏4月壬寅、康国が獅子を献ず。
- 閏月丁卯、日食。癸巳、李靖・侯君集・李大亮・李道宗が牛心堆で吐谷渾を破る。
- 5月乙未、烏海でも破り柏海まで追撃。薛万均・薛万徹が赤水源で破り名王20人を獲る。庚子、太上皇(高祖)が大安宮で崩御。壬子、李靖が西海で吐谷渾を平定し王慕容伏允を捕える。その子慕容順光が降ったため西平郡王に封じ本国を復した。
- 秋7月甲寅、太廟を6室に増修。
- 冬10月庚寅、高祖を献陵に葬る。戊申、太廟に祔す。辛丑、房玄齡に開府儀同三司を加える。
- 12月甲戌、吐谷渾西平郡王慕容順光が部下に弑され、侯君集を遣わし安撫、順光の子諾曷鉢を河源郡王に封じ部衆を統べさせる。蕭瑀を再び参預朝政とする。
貞觀十年
- 正月壬子、房玄齡・魏徴が梁・陳・斉・周・隋の五代史を上奏、秘閣に蔵する詔。癸丑、多数の皇族の封を改める(趙王元景→荊王、魯王元昌→漢王、鄭王元礼→徐王、徐王元嘉→韓王、荊王元則→彭王、滕王元懿→鄭王、呉王元軌→霍王、豳王元鳳→虢王、陳王元慶→道王、魏王霊夔→燕王、蜀王恪→呉王、越王泰→魏王、燕王祐→斉王、梁王愔→蜀王、郯王惲→蔣王、漢王貞→越王、申王慎→紀王)。
- 夏6月、魏徴を特進・知門下省事とする。壬申、温彦博を尚書右僕射とする。甲戌、楊師道を侍中とする。己卯、皇后長孫氏が立政殿で崩御。
- 冬11月庚寅、文徳皇后を昭陵に葬る。
- 12月壬申、慕容諾曷鉢が来朝。乙亥、京師の囚徒を親録。この年、関内・河東で疾病、医薬を送り治療させる。
貞觀十一年
- 正月丁亥朔、鄶王元裕を鄧王、譙王元名を舒王に改封。癸巳、魏王泰に雍州牧・左武候大将軍を加える。庚子、新律令を天下に頒布。飛山宮を造営。甲寅、房玄齡らが《五礼》を上奏、施行の詔。
- 2月丁巳、薄葬を命じる詔(生あるものは必ず終わりがあり、身後は倹約を旨とすべしとの趣旨で、自らの陵は九嵕山に棺を容れるのみとし、功臣密戚には塋地と秘器を賜う旨)。甲子、洛陽宮に幸し漢文帝を祭らせる。
- 3月丙戌朔、日食。丁亥、洛陽に到着。丙申、洛州を洛陽宮と改める。辛亥、広城沢で大蒐。癸丑、還宮。
- 夏4月甲子、乾元殿前の槐樹に落雷。丙寅、河北・淮南に孝悌・儒術・文辞・政体に優れた人材を挙げさせ洛陽宮へ召す詔。
- 6月甲寅、温彦博が薨去。丁巳、明徳宮に幸す。己未、諸王を世封刺史とする制。戊辰、勲臣も世封刺史とする制。李道宗を江夏郡王、李孝恭を河間郡王に改封。己巳、許王元祥を江王に改封。
- 秋7月癸未、大雨。谷水が洛陽宮に溢れ深さ4尺、左掖門を壊し宮寺19所を毀す。洛水も溢れ600家が流される。庚寅、災異により百官に上封事を命じ得失を極言させる。丁酉、還宮。壬寅、明徳宮・飛山宮玄圃院を廃し被災民に分与、帛を賜う。丙午、亳州の老君廟・兗州の宣尼廟を修め各20戸で祭祀させる。涼武昭王の墓にも20戸の守衛を付し芻牧・樵採を禁じる。
- 9月丁亥、河が溢れ陝州河北県を壊し河陽中潭を毀す。白司馬阪に幸し視察、被災民に粟帛を賜う。
- 冬11月辛卯、懐州に幸す。乙未、済源で狩す。丙午、還宮。
- 12月辛酉、百済王が太子隆を遣わし来朝。
貞觀十二年
- 正月乙未、高士廉らが《氏族志》130巻を上奏。壬寅、松州・叢州で地震、家屋倒壊、圧死者あり。
- 2月乙卯、京師へ還る。癸亥、砥柱を観て功徳を刻銘。甲子、夜郎の獠が反すも斉善行が討平。乙丑、陝州から河北県へ幸し夏禹廟を祀る。丁卯、柳谷頓で塩池を観る。戊寅、隋の忠臣堯君素を顕彰し蒲州刺史を追贈、子孫を録用。
- 閏2月庚辰朔、日食。丙戌、洛陽宮より還る。
- 夏5月壬申、虞世南が卒す。
- 6月庚子、玄武門左右飛騎を初めて置く。
- 秋7月癸酉、高士廉を尚書右僕射とする。
- 冬10月己卯、始平で狩し高齢者に粟帛を賜う。乙未、始平より還る。己亥、百済が金甲雕斧を貢す。
- 12月辛巳、上官懐仁が壁州で山獠を大破。
貞觀十三年
- 正月乙巳朔、献陵に謁す。三原県及び随行者の大辟罪を曲赦。丁未、献陵より還る。戊午、房玄齡を太子少師に加える。
- 2月丙子、世襲刺史を停止。
- 3月乙丑、畢・昴宿に彗星。
- 夏4月戊寅、九成宮に幸す。甲申、阿史那結社爾が御営を犯し誅殺。壬寅、雲陽の地が方丈にわたり燃え続け昼は灰、夜は光り木草を投じると燃える現象が数年続く。前年冬より5月まで雨が降らず。甲寅、正殿を避け五品以上に上封事を命じ、膳を減らし役を罷め、賑恤の使を分遣し冤屈を申理させると、雨が降った。
- 6月丙申、皇弟元嬰を滕王に封じる。
- 秋8月辛未朔、日食。庚辰、李思摩を突厥可汗に立て河北に建牙させる。
- 冬10月甲申、九成宮より還る。
- 11月辛亥、楊師道を中書令とする。
- 12月丁丑、侯君集を交河道行軍大総管とし高昌討伐に向かわせる。乙亥、皇子福を趙王に封じる。壬午、王志遠が罪により誅される。洛・相・幽・徐・斉・并・秦・蒲などの州に常平倉を置く詔。己丑、慕容諾曷鉢が迎婚に来る。壬辰、咸陽で狩す。
- この年、滁州で野蚕が槲葉を食い6570石分の繭を得たと報告。高麗・新羅・西突厥・吐火羅・康国・安国・波斯・疏勒・于闐・焉耆・高昌・林邑・昆明ら遠夷が相次いで朝貢。
貞觀十四年
- 正月庚子、有司に時令を読ませる初例。甲寅、魏王泰の邸宅に幸す。雍州・長安の獄の大辟以下を赦す。
- 2月丁丑、国子学に幸し釈奠。大理・万年の系囚を赦し優秀な学生に加級。庚辰、李道明が弘化公主を吐谷渾へ送る。壬午、温湯に幸す。辛卯、温湯より還る。乙未、前代の名儒(皇侃・褚仲都・熊安生・沈重・沈文阿・周弘正・張機・何妥・劉焯・劉炫ら)の子孫を求めさせる詔。
- 3月戊午、寧朔大使を置き突厥を護る。
- 夏5月壬戌、燕王霊夔を魯王に改封。
- 6月乙酉、大風で木が折れる。己丑、薛延陀が求婚。乙未、滁州の野蚕繭8300石を収める。
- 8月庚午、襄城宮を新造。癸巳、侯君集が高昌を平定、西州を置く。
- 9月癸卯、西州の大辟罪を曲赦。乙卯、西州に安西都護府を置く。
- 冬10月己卯、李孝恭・殷開山・劉政会らを高祖廟庭に配饗する詔。
- 閏月乙未、同州に幸す。甲辰、堯山で狩す。庚戌、同州より還る。丙辰、吐蕃が黄金器千斤を献じ求婚。
- 11月甲子朔、冬至。圜丘で祭祀。
- 12月丁酉、交河道の軍が帰還。侯君集が高昌王麴智盛を捕らえ観徳殿に献捷、3日間の酺を賜う。乙卯、高麗世子相権が来朝。
貞觀十五年
- 正月丁卯、吐蕃の国相禄東賛が迎婚に来る。丁丑、李道宗が文成公主を吐蕃へ送る。辛巳、洛陽宮に幸す。
- 3月戊申、襄城宮に幸す。庚午、襄城宮を発つ。
- 夏4月辛卯、翌年2月の泰山封禅の儀制を詳定する詔。
- 5月壬申、并州の僧道・老人らが太原(太宗ゆかりの地)への行幸を請う。太宗は武成殿で宴し、旧知の者と旧交を語らい「太原起義から天下平定に至り、少小の頃の遊観の地は忘れがたい」と述べ、封禅の後に再訪すると答えた。丙子、百済王扶余璋が卒し世子扶余義慈を帯方郡王として立てる。
- 6月戊申、天下諸州に学問・孝悌・文章に優れた者を挙げさせ翌年2月泰山に集める詔。己酉、太微垣に彗星が現れ郎位を犯す。丙辰、泰山封禅を停止し正殿を避け、食を減らして咎を思う。
- 秋7月甲戌、彗星消える。
- 冬10月辛卯、伊闕で大閲。壬辰、嵩陽に幸す。辛丑、還宮。
- 11月壬戌、郷長を廃す。壬申、京師へ還る。癸酉、薛延陀が同羅・僕骨・回紇・靺鞨・霫の衆を率い漠を渡り白道川に屯す。張倹・李勣・李大亮・李襲誉を分道して防がせる。
- 12月戊子朔、洛陽宮より還る。甲辰、李勣が諾真水で薛延陀を大破し3千余級を斬り馬1万5千匹を獲る。薛延陀は逃走。李勣はさらに五台県で突厥思結を破り男女千余口・羊馬多数を得た。
貞觀十六年
- 正月辛未、京・諸州の死罪囚を西州へ配し戸とする詔。岑文本を中書侍郎・専知機密とする。
- 夏6月辛卯、隠王建成を隠太子、海陵剌王元吉を巣剌王と復する詔。
- 秋7月戊午、長孫無忌を司徒、房玄齡を司空とする。
- 9月丁巳、魏徴を太子太師とする(知門下省事は如故)。
- 冬11月丙辰、岐山で狩す。辛酉、隋文帝陵を祭らせる。丁卯、慶善宮南門で武功の士女を宴し、老父と旧事を語り涕泣、老人らが舞い万歳の寿を献じた。庚午、岐州より還る。
- 12月癸卯、温湯に幸す。甲辰、驪山で狩す。天候が悪く囲みの兵が途絶えたが、軍令を乱さぬよう自ら回避した。この年、高麗の大臣蓋蘇文が王高武を弑し、その甥の蔵を王に立てた。
貞觀十七年
- 正月戊辰、劉蘭が謀反し腰斬。魏徴が薨去。戊申、長孫無忌ら勲臣24人の肖像を凌煙閣に描かせる詔。
- 3月丙辰、斉王祐が長史権万紀・典軍韋文振を殺し斉州に拠って自守、李勣・劉徳威を遣わし討伐するが到着前に部下杜行敏が捕らえ帰順、斉王祐は内侍省で賜死。丁巳、熒惑が心宿の前星に入り19日後に退く。
- 夏4月庚辰朔、皇太子承乾に罪あり庶人に廃す。漢王元昌・侯君集も謀に連座し誅される。丙戌、晋王治を皇太子に立て大赦、3日間の酺。丁亥、楊師道を吏部尚書とする。己丑、長孫無忌を太子太師、房玄齡を太子太傅、蕭瑀を太子太保、李勣を太子詹事・同中書門下三品とする。庚寅、太宗自ら太廟に謁し承乾の過ちを謝す。癸巳、魏王泰が罪により東莱郡王に降格。
- 5月乙丑、孝廉茂才異能の士を挙げさせる手詔。
- 6月己卯朔、日食。壬午、隋恭帝を改葬。丁酉、高士廉が致仕を請い開府儀同三司・同中書門下三品を授かる。
- 閏月戊午、薛延陀が馬5万匹・牛駝1万・羊10万を献じ求婚、許される。丙子、東莱郡王泰を順陽王に改封。
- 秋7月庚辰、京城に「上が人心肝を取り天狗を祀らせている」との流言が広まり動揺、太宗は使者を遣わし宣諭させ月余りで収まる。丁酉、房玄齡が母の喪により罷職。
- 8月、張亮を刑部尚書・参預朝政とする。
- 9月癸未、庶人承乾を黔州へ徙す。
- 冬10月丁巳、房玄齡が復職。
- 11月己卯、南郊で祭祀。壬午、天下に3日間の酺。涼州で瑞石を得たとして曲赦、京城・諸州の系囚を多く原宥。
貞觀十八年
- 正月壬寅、温湯に幸す。
- 夏4月辛亥、九成宮に幸す。
- 秋8月甲子、九成宮より還る。丁卯、劉洎を侍中、岑文本・馬周を中書令とする。
- 9月、褚遂良が参預朝政。
- 冬10月辛丑朔、日食。甲辰、太子司議郎官員を初めて置く。甲寅、洛陽宮に幸す。郭孝恪が焉耆を滅ぼしその王突騎支を捕らえ行在所へ送る。
- 11月壬寅、洛陽宮に到着。庚子、李勣を遼東道行軍総管(柳城より出撃、李道宗が副)、張亮を平壌道行軍総管(水軍で萊州より出撃、常何・左難当が副)とし、天下の甲士10万を募り高麗討伐に向かわせる。
- 12月辛丑、庶人承乾が死去。
貞觀十九年
- 2月庚戌、太宗自ら六軍を統べ洛陽を発つ。乙卯、皇太子を定州に留め監国とし、高士廉・劉洎・馬周・張行成・高季輔の5人に機務を掌らせ、楊師道を中書令とする。殷の比干に太師を追贈し謚を忠烈とし墓を封じ祠堂を修めさせる詔。
- 3月壬辰、定州を発つ。長孫無忌・岑文本・楊師道が従う。
- 夏4月癸卯、幽州城南で誓師し六軍を大饗して遣わす。丁未、岑文本が軍中で卒す。癸亥、李勣が蓋牟城を攻略。
- 5月丁丑、遼河を渡る。甲申、太宗自ら鉄騎を率い李勣と遼東城を囲み、烈風に乗じ火弩を放ち城楼を焼き落とし攻略。
- 6月丙辰、安市城に至る。丁巳、高麗の高延寿・高恵真が15万を率い安市城救援に来るが、李勣・太宗自ら山上から指揮し大破、延寿らは降伏(駐蹕山と命名し刻石で紀功)。天下に2日間の酺を賜う。
- 秋7月、李勣が安市城を攻めるが9月まで陥せず、班師。
- 冬10月丙辰、臨渝関に入り皇太子が定州から出迎える。戊午、漢武台で紀功の刻石。
- 11月辛未、幽州に幸す。癸酉、大饗し軍を還す。
- 12月戊申、并州に幸す。劉洎が罪により賜死。この年、薛延陀の真珠毗伽可汗が死去。
貞觀二十年
- 正月、并州に滞在。丁丑、孫伏伽・褚遂良ら22人を六条をもって四方に巡察させ官吏を黜陟。庚辰、并州を曲赦し従官・起義元従を宴し粟帛を賜う。
- 3月己巳、京師へ還る。己丑、張亮が謀反し誅される。
- 閏月癸巳朔、日食。
- 夏4月甲子、長孫無忌・房玄齡・蕭瑀が調護の職を辞し許される。
- 6月、崔敦礼・李勣が鬱督軍山北で薛延陀を撃破、5千余級を斬り男女3万余人を虜とする。
- 秋8月甲子、皇孫を陳王に封じる。己巳、霊州に幸す。庚午、涇陽頓に至る。鉄勒回紇・抜野古ら11姓が朝貢し「延陀可汗は大国に事えず部落は離散した、我らも延陀を追わず天子に帰命し漢官の設置を乞う」と奏す。
- 9月甲辰、鉄勒諸部の俟斤・頡利発らが霊州に相次ぎ来貢、吏の設置を請い太宗を可汗と仰いだ。北荒がすべて平定され五言詩を石に刻んでこれを叙した。辛亥、霊州で地震。
- 冬10月、蕭瑀が商州刺史に貶される。丙戌、霊州より還る。
貞觀二十一年
- 正月壬辰、高士廉が薨去。丁酉、翌年2月の泰山封禅の詔。甲寅、京師に3日間の酺を賜う。
- 2月壬申、左丘明・卜子夏ら経学の先儒21人を宣尼廟に配享させる詔。丁丑、皇太子が国学で釈菜。
- 夏4月乙丑、終南山に太和宮(翠微宮と改称)を造営。
- 5月戊子、翠微宮に幸す。
- 6月癸亥、長孫無忌に揚州都督を加授。
- 秋7月庚子、宜君県鳳凰谷に玉華宮を建てる。庚戌、翠微宮より還る。
- 8月壬戌、河北の大水により封禅を停止する詔。辛未、骨利幹国が名馬を貢す。丁酉、皇子明を曹王に封じる。
- 冬11月癸卯、順陽王泰を濮王に改封。
- 12月戊寅、阿史那社爾・契苾何力・郭孝恪・楊弘礼を琯山道行軍大総管とし亀茲討伐に向かわせる。この年、堕婆登・乙利・鼻林送・都播・羊同・石・波斯・康国・吐火羅・阿悉吉ら遠夷19国が朝貢。突厥の北から回紇部落まで66の駅を置き北荒に通じさせた。
貞觀二十二年
- 正月庚寅、馬周が卒す。長孫無忌が検校中書令を兼ね尚書門下二省事を知る。己亥、崔仁師を中書侍郎・参知機務とする。戊戌、温湯に幸す。戊申、還宮。
- 2月、褚遂良が黄門侍郎に復職。崔仁師が除名され連州へ配流。癸丑、西番沙鉢羅葉護が帰附。戊午、結骨部に堅昆都督を置く。乙亥、玉華宮に幸す。乙卯、経路の高齢者・篤疾に粟帛を賜う。己卯、華原で蒐猟。
- 4月甲寅、磧外の蕃人が越境牧馬を争い太宗自ら断決し皆服す。丁巳、梁建方が松外蛮を撃ちその部落72所を下す。
- 5月庚子、王玄策が帝那伏帝国を大破し王阿羅那順・王妃・子らを捕え男女1万2千人・牛馬2万余を献じる。方士那羅邇娑婆に延年の薬を作らせる。吐蕃が中天竺国を破り献捷。
- 6月癸酉、蕭瑀が薨去。
- 秋7月癸卯、房玄齡が薨去。
- 8月己酉朔、日食。
- 9月己亥、褚遂良を中書令とする。
- 10月癸亥、玉華宮より還る。
- 11月戊戌、眉・邛・雅三州の獠が反すも梁建方が討平。庚子、契丹の窟哥、奚の可度者が内属、契丹部に松漠都督、奚部に饒楽都督を置く。
- 12月乙卯、殿中侍御史・監察御史を各2員増置、大理寺に平事10員を置く。
- 閏月丁丑朔、阿史那社爾が処密・処月を降し亀茲の大城など50城を破り数万口を虜とし亀茲王訶黎布失畢を捕らえて帰る。亀茲平定、西域震駭。癸未、新羅王が相の金春秋・子文王を遣わし来朝。この年、新羅の女王金善徳が死去し妹の真徳を新羅王に冊立。
貞觀二十三年
- 正月辛亥、亀茲王訶黎布失畢とその相那利らを社廟に献ず。
- 2月丙戌、瑤池都督府を安西都護府に隷させる。丁亥、西突厥肆葉護可汗が来朝。
- 3月丙辰、豊州都督府を置く。前冬より雨無く、この月己未にようやく雨。辛酉、大赦。丁卯、皇太子に金液門で聴政させる詔。この月、太陽が赤く光を失う。
- 夏4月己亥、翠微宮に幸す。
- 5月戊午、李勣を畳州都督とする。辛酉、李靖が薨去。己巳、太宗が含風殿で崩御、享年52。遺詔で皇太子に柩前で即位させ喪は漢制に従うとし、当初喪を秘した。庚午、飛騎の兵で皇太子を先に京へ還らせ六府甲士4千を道と安化門に配して護衛。壬申、喪を発する。
- 6月甲戌朔、太極殿に殯す。
- 8月丙子、百僚が謚を文皇帝、廟号を太宗と定める。庚寅、昭陵に葬る。上元元年(674年)8月、尊号を文武聖皇帝と改める。天宝13載(754年)2月、尊号を文武大聖大廣孝皇帝と改める。
史論
史臣曰く――文皇帝(太宗)は挙兵から異才を発揮し聡明神武であった。人材の登用は党派に偏らず、志業を託せば皆その才を尽くさせた。かつての仇敵であった屈突通・尉遅敬徳が心服し、疎遠であった馬周・劉洎も宰相の任を委ねられたのはこの道による。堯・舜の聖であっても檮杌・窮奇のような悪人を用いて治世は成らず、伊尹・呂尚の賢であっても夏の桀・殷の紂の下では国を昌んにできない。房玄齡・魏徴の智は孔子・孟子に及ばずとも主を尊び民を庇うことができたのは時に恵まれたからである。太宗ほどの賢でありながら兄弟には愛を失い、諸子への教えを誤ったのはなぜかと問う者があろうが、舜も四罪を仁化できず、堯も丹朱を訓化できなかった故事の通りである。高祖が讒言を用い建成が太宗の功を忌んだ時、変事は瞬時に起こり、承乾の愚も聖父(太宗)にすら正せなかった。もし太宗が最初から哲嗣(賢い後継者)に定め高麗遠征に志を馳せず、貞観の初めのように人を用い魏徴のように諫言を納れ続けていたなら、周の武王・成王の世を上回り、漢の文帝・武帝すら及ばぬ治世となったであろう。その聴断の的確さ、諫言に従う姿勢は千載に称えられる、まさに唯一の人物であった。
贊
贊に曰く――文王・武王が国を開いた周には一門に三聖があった(文王・武王・周公)。文(太宗)は高位に定まったが兄弟の情は不和であった。管叔・蔡叔が誅されて後に成王・康王の治世は正しく整った(唐でも太子承乾・魏王泰らの争いを経て晋王治=高宗の代に至った)。貞観の遺風は今なお歌い継がれる。