舊唐書卷二 太宗上

唐の第二代皇帝、太宗李世民(598年–649年)。高祖の第二子。太原挙兵を父高祖に勧めた首謀者の一人であり、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥ら群雄を次々に討平して唐の統一に最大の武功を立てた。天策上将の号を得て文学館を開くなど声望を高めたが、皇太子建成・斉王元吉との対立から玄武門の変を起こしてこれを誅し、武徳9年(626年)に高祖から譲位されて即位した。即位直後には突厥頡利可汗と渭水で講和(渭水の盟)。この巻は貞観三年までを収め、続きは巻三に記される。

年表(13件)

出自と生い立ち

  • 太宗の諱は世民、高祖の第二子。母は太穆順聖皇后竇氏。隋の開皇18年(598年)12月戊午、武功の別館で生まれた。生誕時、二頭の龍が館門の外で戯れ三日で去ったという。高祖が岐州に赴任した時、太宗は4歳。人相見と称する書生が高祖に「貴人であり、貴子(太宗)は龍鳳の姿・天日の表を持ち、二十歳頃には必ず世を済い民を安んじる(済世安民)であろう」と告げ、姿を消したことから「世民」の名が付けられたという。太宗は幼くして聡叡、臨機の果断さは常人の測り知れないものがあった。
  • 大業末、煬帝が雁門で突厥に包囲された際、太宗は救援に応募し屯衛将軍雲定興の営に属した。太宗の献策(旗鼓を多く並べ疑兵を装う)により突厥は包囲を解いて逃げた。

太原挙兵前後の武功

  • 高祖が太原を守っていた頃(太宗18歳)、高陽の魏刀児(歴山飛と自称)が太原を攻めた際、太宗は軽騎で包囲を突破し高祖を万衆の中から救出した。以後、太宗は密かに義挙を図り、財を推して士を養い、群盗・大俠の心を得た。義兵が起こると西河を略定し、右領大都督・燉煌郡公に封じられた。
  • 大軍が賈胡堡に至り、隋将宋老生が霍邑で抵抗し長雨で糧が尽きた際、高祖は太原への撤退を裴寂と議したが、太宗は「先に咸陽に入り天下に号令すべきで、退けば義に従う者が離散する」と諫言し、聞き入れられぬと帳外で号泣して翻意させた。8月己卯、太宗は数騎で城下に迫り宋老生を挑発して出撃させ、南原より奇襲して大破、霍邑を平定した。関中入りの後、太宗は永豊倉の窮民賑救・群盗の収編・京師攻略を献策し高祖に称賛された。渭北を平定し三輔の吏民・豪傑が日々千を数えて帰順、涇陽で勝兵9万を得、劉鷂子を破りその衆を併せた。司竹の李仲文・何潘仁・向善志らも合流し阿城で兵13万を獲た。長安父老の慰労を一切受けず軍紀は厳粛であった。まもなく大軍とともに京城を平定。高祖の輔政に伴い唐国内史を受け秦国公に改封。薛挙が精兵10万で渭浜に迫った際、太宗自ら撃って大破し隴坻まで追撃した。

東都攻略と薛仁杲討伐

  • 義寧元年(617年)12月、右元帥として10万の兵で東都を経略。撤退時、隋将段達の追撃を三方の伏兵で撃破し、宜陽・新安に熊州・穀州を置いて還った。趙国公に改封。高祖受禅ののち尚書令・右武候大将軍・秦王・雍州牧を拝命。
  • 武徳元年(618年)7月、薛挙が涇州を侵し太宗は討伐するも不利で還る。9月、薛挙が死に子の仁杲が嗣ぐ。太宗は再び元帥として折墌城で対峙、60余日堅塁を守り兵を出さず賊の糧を尽きさせた。牟君才・梁胡郎が降ると、太宗は淺水原で龐玉を囮に敵将宗羅㬋を誘い、自ら北から奇襲して大破。数十騎で追撃し折墌に迫ると仁杲は降伏、精兵万余・男女5万口を得た。諸将の問いに対し太宗は「権道をもって迫り敵の計を封じた。羅㬋は油断していたが、逃げ帰らせず急追したことで隴西へ散った兵が城を空にし、仁杲は恐れて降った」と自らの用兵を説明した。李密は太宗の威容に驚嘆し「真の英主」と称えたという。凱旋して太廟に献捷、太尉・陝東道行台尚書令となり長春宮に鎮し関東の兵馬を統率、左武候大将軍・涼州総管も加えられた。

劉武周・宋金剛討伐

  • 宋金剛が澮州を陥し王行本が蒲州に拠り呂崇茂が夏県で反すると、高祖は河東放棄・関西固守を敕したが、太宗は「太原は王業の基、河東は京邑の資」として精兵3万を求め上表し、高祖は関中兵を悉く発してこれに益し自ら長春宮まで送った。武徳2年(619年)11月、太宗は龍門関から氷を踏んで渡り柏壁に屯し宋金剛と対峙。李孝基が夏県で敗れ於筠・独孤懐恩・唐儉が敵将尋相・尉遅敬徳に捕われた際、太宗は殷開山・秦叔宝に美良川で迎撃させ大破、柏壁に復帰。諸将の出戦要求に対し太宗は「金剛は孤軍深入で糧尽きれば自ら遁走する」と堅塁持久策を説いた。
  • 武徳3年(620年)2月、糧が尽きた宋金剛は遁走、太宗は介州まで追撃。金剛軍を李世勣・程咬金・秦叔宝、翟長孫・秦武通が挟撃し一時押されるも太宗自ら精騎でその陣後を突き大破、数十里を追奔。尉遅敬徳・尋相ら8千が降り、太宗はこれを疑う屈突通に対し「昔、光武帝が赤心を人腹に置いたように、敬徳を信任する」と述べた。劉武周は突厥へ逃亡し并州・汾州は旧地に復した。益州道行台尚書令を加えられる。

王世充・竇建徳討伐

  • 武徳3年7月、王世充討伐のため洛邑に進み穀州に屯。慈澗での挑発戦で太宗は重囲に陥るも自ら殿軍となり敵将燕頎を捕える働きをみせた。世充は慈澗の守りを撤し東都に籠る。史万宝・劉徳威・王君廓・黄君漢らの分進策で黄河以南が相次いで帰順、大軍は邙山に進屯。9月、太宗は五百騎で偵察中に世充の万余と遭遇戦となり、これも大破し陳智略を捕える。楊慶の帰順により滎・汴・洧・豫九州が相次ぎ降り、世充は竇建徳に救援を求めた。
  • 武徳4年(621年)2月、青城宮に進屯。世充の2万が方諸門から出陣した際、太宗は屈突通に渡河させ自らは伏兵の煙を合図に騎兵で挟撃、辰から午まで激戦の末大破し8千を俘斬。城下に迫り長囲策で持久。杜伏威の援軍も合流し、鄭州司馬沈悦の帰順で武牢を得た。竇建徳が十余万で酸棗まで来援すると、蕭瑀・屈突通・封徳彝らは腹背受敵を恐れ穀州への退却を求めたが、太宗は「世充は糧尽きて自壊寸前、建徳は驕兵で武牢を扼せば必ず破れる」として却下し、屈突通に元吉を輔けて世充を囲ませ、自ら3500の歩騎で武牢へ向かった。
  • 建徳は板渚に塁を築き武牢で20余日対峙。太宗は建徳が牧馬の隙を狙う計略を逆手に取り、汜水で全軍決戦を挑発。「敵は険を越えて騒がしく、城に迫って我を侮っている。持久すれば必ず自ら退く」と読み、辰から午まで待ち、敵が疲れ坐して水を争う頃を見て「今こそ撃つべし」と自ら軽騎で誘撃、諸軍が続いて合戦。史大奈・程咬金・秦叔宝・宇文歆らと共に敵陣後方に突入し旗を翻すと敵は大潰、30里を追奔し3千余を斬り5万を虜とし、竇建徳を陣中で生擒した。太宗は建徳を「王世充との得失に関係ないのになぜ越境して我が兵鋒を犯したか」と詰問し、建徳は「今来なければ遠征の労を強いることになると思った」と答えたという。高祖は大いに悦び手詔で労った。建徳を東都城下に連行すると王世充は官属2千余人と共に降伏、山東は平定された。太宗は宮城に入り府庫を封守し一切取らず、房玄齡に隋の図籍を収めさせた。段達ら共謀者50余人を誅し、冤罪の者は釈放、非罪で誅殺された者は祭って弔った。
  • 6月、凱旋。太宗は黄金甲を身にまとい鉄馬1万騎・甲士3万を率い、二偽主(王世充・竇建徳)と隋の器物輦輅を太廟に献じた。高祖は自古の官職では殊功に見合わないとして特別な徽号を設けることとした。

天策上将

  • 10月、天策上将・陝東道大行台の号を加えられ位は王公の上に置かれた。封邑を2万戸増し合計3万戸、金輅・袞冕・玉璧・黄金6千斤・鼓吹・班剣40人を賜る。海内がほぼ平定される中、太宗は文学館を開き杜如晦ら18学士を招き経義を討論した(「十八学士」)。まもなく竇建徳の旧将劉黒闥が挙兵し洺州に拠る。

劉黒闥討伐

  • 12月、太宗は東討の総戎となる。武徳5年(622年)正月、肥郷に進軍し糧道を断って2ヶ月対峙。黒闥が洺水を渡り迫ると太宗は自ら騎兵でその馬軍を破り、あらかじめ堰を築いて水位を浅くしておいた洺水の堰を戦の最中に決壊させ、敗走する賊を溺死させた。黒闥は突厥へ逃げ、河北が平定された。徐円朗も討平し、河・済・江・淮の諸郡邑が平定された。10月、左右十二衛大将軍を加えられる。

突厥への対応・遷都論

  • 武徳7年(624年)秋、突厥頡利・突利可汗が関中を侵し、長安を焼いて遷都すべしとの説が高祖に上申された。蕭瑀らも正面から諫めなかったが、太宗は「霍去病でさえ匈奴殲滅を志した。臣は籓維として胡塵を鎮められぬ責任がある。一両年で頡利を服属させられねば遷都策に従う」と独り反対し、高祖に許され三十余騎で敵情視察に赴き、遷都不可を固く奏して高祖はこれを止めた。武徳8年(625年)、中書令を加えられる。

武德九年

  • 皇太子建成・斉王元吉が太宗の暗殺を謀ったため、6月4日、太宗は長孫無忌・尉遅敬徳・房玄齡・杜如晦・宇文士及・高士廉・侯君集・程知節・秦叔宝・段志玄・屈突通・張士貴らと共に玄武門で両者を誅した。甲子、皇太子に立てられ庶政を断決。太宗は禁苑の鷹犬を放ち諸方からの珍異の献上を停め、政治は簡素を旨とし天下大悦。百官に上封事を命じ治国の要を陳べさせた。己巳、「世民」の二字は不連続の使用であれば避諱不要とする令。幽州大都督府を廃す。辛未、陝東道大行台を廃し洛州都督府を置く、益州道行台を廃し益州大都督府を置く。壬午、幽州大都督廬江王瑗の謀逆で庶人に落とす。乙酉、天策府を廃す。7月壬辰、高士廉を侍中、房玄齡を中書令、蕭瑀を尚書左僕射、楊恭仁を雍州牧、長孫無忌を吏部尚書、杜如晦を兵部尚書、宇文士及を中書令、封徳彝を尚書右僕射とする。
  • 8月癸亥、高祖が皇太子に伝位、太宗は東宮顕徳殿で即位。大赦。武徳元年以来の流配者を放還、文武官に爵一級・勲一転を賜い天下に一年の賦役免除。癸酉、掖庭の宮女3千余人を放つ。甲戌、突厥頡利・突利が涇州を侵す。乙亥、武功へ進寇し京師戒厳。丙子、妃長孫氏を皇后に立てる。己卯、突厥が高陵を侵す。辛巳、尉遅敬徳が涇陽で突厥を大破し千余級を斬る。癸未、突厥頡利が渭水便橋の北に至り、酋帥執失思力を偵察として送ると太宗はこれを捕縛。自ら玄武門を出て6騎で渭水に赴き頡利と隔津して盟約違反を責め、大軍の到着を見た頡利は恐れて和を請い、太宗はこれを許した(渭水の盟)。乙酉、便橋で白馬を刑して盟い突厥は退いた。9月丙戌、頡利が馬3千匹・羊1万口を献じたが受けず、掠奪した中国戸口の返還を命じた。丁未、諸衛の騎兵を顕徳殿庭で調練し、自ら試射を臨見して賞を与えた。この軍事訓練に諫言する朝臣もいたが太宗は聞かず、以後士卒は精鋭となった。壬子、私家の淫祀・妄設の禁令を詔する。長孫無忌を斉国公、房玄齡を邢国公、尉遅敬徳を呉国公、杜如晦を蔡国公、侯君集を潞国公に封じる。
  • 冬10月丙辰朔、日食。癸亥、中山王承乾を皇太子に立てる。癸酉、裴寂以下、功臣に食実封を賜う(裴寂1500戸、長孫無忌・王君廓・尉遅敬徳・房玄齡・杜如晦各1300戸、長孫順徳・柴紹・羅芸・李孝恭各1200戸、侯君集・張公謹・劉師立各1000戸、李世勣・劉弘基各900戸、高士廉・宇文士及・秦叔宝・程知節各700戸、安興貴・安修仁・唐儉・竇軌・屈突通・蕭瑀・封徳彝・劉義節各600戸、銭九隴・樊世興・公孫武達・李孟常・段志玄・龐卿惲・張亮・李薬師・杜淹・元仲文各400戸、張長遜・張平高・李安遠・李子和・秦行師・馬三宝各300戸)。11月庚寅、郡王に封じられた宗室を県公に降す。12月癸酉、囚徒を親録。この年、新羅・亀茲・突厥・高麗・百済・党項がそれぞれ朝貢。

貞觀元年

  • 春正月乙酉、貞観と改元。辛丑、燕郡王李芸が涇州で反すも左右に斬られ首を京師に伝えられる。庚午、竇軌を益州大都督とする。
  • 3月癸巳、皇后が親蚕。蕭瑀を太子少師とする。丙午、北斉の忠臣(崔季舒・郭遵・封孝琰)の子孫の名誉を回復する詔。
  • 夏4月癸巳、涼州都督長楽王幼良が罪により誅される。
  • 6月辛巳、封徳彝が薨去。壬辰、蕭瑀を尚書左僕射とする。この夏、山東諸州が大旱により賑恤・租賦免除。
  • 秋7月壬子、長孫無忌を尚書右僕射とする。
  • 8月戊戌、高士廉を安州大都督に貶す。裴矩が卒す。関東・河南・隴右沿辺諸州で秋の稼に霜害。
  • 9月辛酉、温彦博・魏徴らを諸州へ分遣し賑恤させる。宇文士及を殿中監、杜淹に朝政参預を署位。
  • 12月壬午、太宗が神仙の虚妄(秦始皇・漢武帝の故事)を侍臣に語る。蕭瑀が事に坐し免官。戊申、義安王孝常・劉徳裕らの謀反が発覚し誅殺。この年、関中饑饉で男女を売る者もあった。

貞觀二年

  • 春正月辛丑、長孫無忌を開府儀同三司とする。李恪を漢王から蜀王へ、李泰を衛王から越王へ、李祐を楚王から燕王へ改封(原文:漢王属を恪王へ、衛王泰を越王へ、楚王祐を燕王へ、と表記)。六侍郎を復置し六尚書事を副える。左右司郎中各1人を置く。李元景を雍州牧、李恪を益州大都督、李泰を揚州大都督とする。2月丙戌、靺鞨が内属。3月戊申朔、日食。丁卯、杜淹を関内諸州へ巡察に遣わし、御府の金宝で自ら身売りした男女を贖い父母へ返す。庚午、大赦。
  • 夏4月己卯、路傍の遺骨を埋葬させる詔。丙申、契丹が内属。天下州県に義倉を初めて置く。夏州の梁師都が従父弟洛仁に殺され城が降る。5月、大雹。6月庚寅、皇子治(後の高宗)誕生、五品以上を宴し、同日生まれの民に粟を賜う。辛卯、太宗は「君主が君主らしくなくとも臣は臣たるべきだ。裴虔通は煬帝の旧臣でありながら弑逆の首謀者となった」として詔を下し、裴虔通を極刑は免じつつ除名・削爵のうえ驩州へ流罪とする(詔文は君臣の義の重さを説き、趙高・董卓の故事に触れる)。
  • 秋7月戊申、牛方裕・薛世良・唐奉義・高元礼ら宇文化及の弑逆に協力した者も裴虔通同様に除名・嶺表配流とする詔。太宗は侍臣に「愚人は憲章を犯しやすく、赦は不軌の輩を利するのみ」「小人の幸いは君子の不幸」と語り、文王・蜀の劉備の故事を引いて濫りに赦を行わない方針を述べた。8月甲戌朔、朝堂に幸し冤屈を親覧。この頃より軍国無事のため毎日西宮で視膳。癸巳、公卿が湿気を避ける楼閣建設を進言したが、太宗は漢文帝の露台建設中止の故事を引き「朕の徳は漢帝に及ばぬのに費えはそれを上回る」として許さなかった。この月、河南・河北で大霜、飢饉。
  • 9月丙午、老臣の尊重・養老の詔。丁未、後宮の宮女を憐れみ、掖庭宮西門より簡出させ嫁がせる詔。
  • 冬10月庚辰、杜淹卒す。戊子、瀛州刺史盧祖尚を殺す。
  • 11月辛酉、圜丘で祭祀。
  • 12月壬午、王珪を侍中とする。

貞觀三年

  • 春正月辛亥、契丹の渠帥が来朝。戊午、太廟に謁す。癸亥、籍田を親耕。辛未、裴寂が事に坐し免官。
  • 2月戊寅、房玄齡を尚書左僕射、杜如晦を尚書右僕射、李靖を兵部尚書、魏徴を守秘書監・参預朝政とする。
  • 夏4月辛巳、太上皇(高祖)が大安宮へ移居。甲子、太宗が初めて太極殿で聴政。
  • 5月、周王元方(太宗の子)薨去。
  • 6月戊寅、旱により囚徒を親録。長孫無忌・房玄齡らを名山大川に遣わし祈雨させ、杜正倫らを関内諸州の慰撫に遣わす。文武官に封事を命じ得失を極言させる。己卯、大風で木が折れる。
  • 秋8月己巳朔、日食。薛延陀が朝貢。
  • 9月癸丑、諸州に医学を置く。
  • 冬11月丙午、西突厥・高昌が朝貢。庚申、李世勣を通漢道行軍総管、李靖を定襄道行軍総管として突厥討伐に当たらせる。
  • 12月戊辰、突利可汗が来奔。癸未、杜如晦が病により辞位、許される。癸丑、建義以来の戦没者を弔うため各地に寺を建て、虞世南・李伯薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・朱子奢らに碑銘を作らせ功業を記させる詔。
  • この年、戸部の奏によれば塞外からの帰還者・突厥の内附者ら、四夷を州県とした地の男女は120余万口にのぼった。