洪秀全演義第四十九回 九江を救い曾国荃身を挺し、三河に戦い李続賓命を殞とす (救九江曾國荃出身 戰三河李續賓殞命)
武昌陥落と晏仲武の最期
- 晏仲武があらかじめ南門城壁に仕掛けた爆薬が炸裂し清兵に大損害を与えるが、李孟群の負傷にも動じない胡林翼の猛攻で武昌は総崩れとなる。馮文炳は重傷で戦死。
- 洪春魁は北門から脱出できたが、晏仲武は舒保軍に道を分断され、羅信南・易良虎の追撃も受けて逃げ場を失い、「死は惜しくないが国事が定まらぬのが無念」と述べて自刃した。武昌はこうして陥落し、胡林翼は殺戮の停止を命じて官文に戦果を報告した。
譚紹洸の脱出と李秀成の対応
- 譚紹洸は秦日綱・洪春魁・韋志俊とともに脱出し、興国州に拠って義勇隊と合流する一方、韋志俊を潜山へ送って李秀成に武昌陥落を報告させた。
- 李秀成は「武昌一城の喪失自体は大局に関わらぬが、清軍が安慶を窺う足がかりを得たのが痛手」と述べ、戦死した晏仲武を厚く弔い、馮文炳(馮雲山の子)には南王の爵を追贈するよう上奏。また韋志俊(韋昌輝の子)の名誉回復を願い出て、洪秀全はこれを許した。ただし洪仁達の反対もあり、韋志俊は当面は入京させず軍中で働かせることとした。
陳玉成の北伐提案と李秀成の慎重論
- 陳玉成は「東南に釘付けでは埒が明かない、自分が北伐するので東南は忠王に任せたい」と提案するが、李秀成は「連敗続きの今は時期尚早。まず大捷を挙げて天王の不安を払拭してから北上すべき」と諭す。
- 韋志俊が「安・福二王の専横を除くべき」と進言するが、李秀成は「東王・北王の争いで国が乱れた前例がある。天王の兄弟に手を出すべきではない」と退け、当面は皖省を固めつつ、まず曾国藩に一戦を挑む方針を固める。
九江への陽動と彭澤渡河
- 李秀成は九江奪還を装って南下し、曾国藩の目を九江に引きつけたうえで、実際は彭沢を渡って曾軍の背後に回る策を実行。黄文金・雷煥・張祖元らを陽動に使い、蘇招生・陸順德の水軍で彭玉麟の水師を牽制させて、無事に渡河を果たした。
- 事態に気づいた曾国藩は「計にはまった」と悟るが、もはや退くに退けず、諸将を九江・湖口周辺に配して迎撃態勢を敷いた。
曾国藩軍の大敗
- 李秀成軍は楊載福・張運蘭・呉坤修・江忠泗・周鳳山ら曾軍の各路を次々と撃破。江忠泗は乱戦の中で狙撃されて戦死し、周鳳山も負傷して軍が崩れるなど、清軍は総崩れとなった。
- 李秀成は「曾国藩を捕えよ、賞銀五万・公侯に封ず」と号令し、賴文鴻らが猛追。曾国藩自身も黄文金の伏兵に前方を塞がれ絶体絶命となるが、張運蘭・呉坤修らに守られ、彭玉麟の水師の船でかろうじて脱出した。
- この一戦で清軍は将校数十名、兵三万人が死傷し、一万余が投降する大敗を喫した。
李秀成、皖省への転進を決断
- 諸将は勢いに乗じて九江攻略を勧めるが、李秀成は「今の九江はもはや要害の価値がなく、守っても維持できない」として深追いを避け、黄文金を江西に残しつつ本隊を率いて皖省(安徽)へ引き返した。
曾国荃の初陣
- 大敗した曾国藩は全軍壊滅に近い状況を報告し、九江へ退いて再起を図る。実弟の曾国荃はこれを機に父の許しを得て湖南巡撫駱秉章の下で郷兵二千を募り、九江へ向かった(太平天国にとって新たな強敵の登場)。
李続賓の皖北侵攻と三河鎮の激突
- 燕王秦日綱の病没を悼みつつ、李秀成は李続賓(羅澤南の弟子)が数万の兵で潜山・太湖・石牌を突破し廬州へ迫っているとの急報を受ける。李続賓の真意は廬州経由で金陵を脅かし安慶を孤立させることにあると読んだ李秀成は、陳玉成と連携してこれを先に叩く方針を固める。
- 陳玉成は含山方面に迂回し、吳汝孝に舒城の要路を扼させて李続賓を誘い出す策を取り、李秀成も白石山経由で進軍。李続賓は廬州包囲を解いて三河鎮に布陣し、夜霧に乗じて陳玉成陣営を奇襲しようとするが、双方が霧の中ですれ違い、逆に陳玉成軍が李続賓軍の背後に回り込む形となった。
- 両軍は金牛洞付近で激突。李続賓は「窮地こそ活路」と鼓舞して奮戦するが、そこへ李秀成の本隊も駆けつけ、清軍の陣形は崩れ始めた。
李続賓の運命は次回に続く。