洪秀全演義第四十八回 龍虎戦して陳玉成を大破し、官胡の兵会して武昌府を収む (龍虎戰大破陳玉成 官胡兵會收武昌府)

九江、窮地に陥る

  • 清軍は九江の四方から坑道を掘り進め、林啟榮は城内から対抗の坑道で防ぐが、多勢の清軍を防ぎきれず、死を覚悟する。城内の兵と住民も一丸となって防戦・作業を助け、林啟榮は感涙してこれに応える。
  • 攻防が続く中、死傷者は積み重なり、城内は疫病が蔓延。薬も尽き、住民の家屋を接収して死者を葬る場を設けるなど窮状が深まるが、それでも軍民は林啟榮を慕い、なお救援を待ち続けた。

黄文金の来援と九江陥落

  • 李世賢の命で黄文金が九江救援に向かうが、清軍側も三路を割いてこれに対処し、包囲は崩れなかった。
  • 六月七日、官文・曾国藩・胡林翼・李続宜が四門に総攻撃をかけ、あらかじめ仕掛けられていた地雷が西北の城壁を爆破。太平軍守備兵は全滅し、清軍がなだれ込んで市街戦となる。真天侯林啟榮は自刃して果て、部将李興隆・元戒・張輝・杜応時・陳官義ら二十余名も力尽きて戦死し、九江はついに陥落した。

林啟榮の最期と評価

  • 林啟榮はもと石達開の部将で、九江守備数年の間に清軍に七、八万の損害を与えたと語られる。曾国藩・胡林翼・左宗棠らも敬意を込めて「林先生」と呼び、左宗棠は「百万の敵とは戦えても、林啟榮とは九江城外で雌雄を決したくない」と評したという。時人はその死を悼む詩を残した(内容:智勇並ぶ者なき将であり、民に慕われながら城と運命を共にした忠義を、張巡になぞらえて称える趣旨)。
  • 遺体は爆死で四散し、頭部のみが目を見開いたまま残されていたため、部下がこれを持ち出し檀木で全身を作って葬った。城が落ちた後も軍民は徹底抗戦し、投降者はほとんど出ず、降伏を申し出た住民一人が民衆の怒りで殺されるほどであった。胡林翼はこれに涙し、殺戮の停止を命じたが、住民は財物や食糧を焼き尽くしてから城を去った。この一戦で太平軍・住民合わせて約二万人、清軍側も五、六万に及ぶ死傷者を出した。

金陵での衝撃と李秀成の分析

  • 九江陥落と林啟榮戦死の報は金陵を震撼させた。李秀成は「九江を失った以上、東南の情勢は大きく変わる。奪還しても守り切れない」と嘆き、林啟榮個人への哀惜を語る(かつて石達開麾下で共に働いた実直な人物であったこと)。
  • 洪秀全に今後の方針を問われた李秀成は、「敵は九江獲得を機に東南で攻勢を強めるだろう。北伐は時期尚早、まず東南で軍威を立て直すべき」と答え、金陵の防備と各地への指示を進めた。

陳玉成、麻城での防衛と胡林翼撃退

  • 英王陳玉成は皖から鄂へ入り麻城に布陣し、多隆阿・鮑超(「多龍鮑虎」)を警戒して堅塁を築いていたが、九江陥落の報に衝撃を受ける。
  • 胡林翼は麻城への直接攻撃を避け、多隆阿・鮑超を安慶方面へ向けて陳玉成をおびき出す策を取るが、陳玉成はこれを見抜き、伏兵で先に胡林翼軍を挟撃。胡林翼軍は大敗し、駆けつけた都統舒保に助けられてようやく退いた。

太湖の激戦、陳玉成の敗北

  • 陳玉成は勝ちに乗じて安慶救援へは向かわず、多隆阿・鮑超本隊への攻撃を選ぶ。両軍は太湖近くの二郎河で対峙。
  • 林紹璋・涂鎮興らが多隆阿を追い詰めるが、江忠義の援軍と多隆阿の奮戦で形勢逆転。指揮使魏超成が単騎で多隆阿に二発を命中させるも討ち取れず、多隆阿は傷を負いながら指揮を続け、太平軍側は総崩れとなる。
  • 一方、陳玉成自身は得意の偽装退却策を仕掛けるが、鮑超軍は略奪目当てで浮き足立つことなく統率を保ち、策は不発に終わる。さらに李続宜・多隆阿の増援も加わり、陳玉成は林紹璋らの敗報も重なって窮地に陥るが、陳仕章の伏兵と李秀成配下・頼文鴻の急行によって辛くも太湖・宿松方面から潜山へ退くことができた。
  • この一戦で清軍五、六千、太平軍一万五、六千の死傷者を出した。陳玉成は「鮑超こそ真の強敵」と認め、部将呉汝孝は「敗因は詐敗策を林紹璋に事前共有しなかった号令の不徹底にある」と分析した。

李秀成と陳玉成の合流、今後の方針

  • 潜山で合流した李秀成と陳玉成は敗戦を総括。李秀成は「今は宿松奪還の好機ではない。安慶が危うくなる」と即時反攻を諫め、代わりに蒲圻方面で蜂起した義勇を招撫して兵力を補い、広西からの募兵も進めるという長期方針を示す。陳玉成も同意し、洪容海を広西へ募兵に向かわせた。
  • 実際に興国・大冶・武昌・江夏・通山・通城・嘉魚・蒲圻一帯から三十余万の義勇が投降を申し出て、李秀成はこれを招撫・訓練した。

武昌攻防戦の緒戦

  • 官文・胡林翼は九江・太湖の勝利で勢いに乗り、武昌奪還を図る。武昌を守る譚紹洸・馮文炳・晏仲武・洪春魁らは籠城継続か撤退かで意見が割れるが、譚紹洸は「これまで数十戦負けていない」として死守を選ぶ。
  • 義勇隊召集のため韋志俊(韋昌輝の子)が派遣され、燕王秦日綱も漢陽襲撃で牽制を図るが、清軍(李孟群・曾国葆・羅鎮南・羅信南・易良虎・舒保・鮑超・李続宜ら五路)は迅速に武昌を包囲し、南門を中心に猛攻をかける。
  • 秦日綱は漢陽渡河を清軍に阻まれて孤立し、武昌の劣勢は決定的となる。晏仲武は譚紹洸に「城と運命を共にせず脱出せよ」と説得し、譚紹洸は妻子を城内に潜ませて親兵二千と共に脱出、秦日綱と合流するが、清軍はついに南門城壁を大砲で爆破するに至った。

続きは次回に語られる。