洪秀全演義第二十七回 李秀成再び漢陽城を奪い、林鳳翔揚州府に大戦す (李秀成二奪漢陽城 林鳳翔大戰揚州府)

陳樹忠の粛清

  • 李秀成は入城後、胡元煒・陳樹忠を厚く賞し、江忠源の遺骸は敵ながら忠臣として礼をもって葬らせた。陳樹忠が功を誇る様子を見て、秀成は胡元煒に「賞目当てで主君を殺す者は信用できない」と評した。
  • 数日後、陳樹忠は郊外で何者かに襲われ、江忠源の親軍を名乗る者に射殺され、密かに埋められた。李秀成はこれを陳樹忠の不義に対する天罰・仇討ちとみなし、表向きは犯人捜索を布告しつつ実際には追及しなかった。

廬州をめぐる清軍の反攻と鮑超撃破

  • 江忠源の死で清朝は動揺し、鮑超・鄧紹良、さらに劉長佑・江忠濬らが廬州救援に向かう。李秀成は城を静かに守らせ、鮑超軍を深夜に何度も驚かせて疲弊させたうえ、伏兵で急襲。
  • 鮑超は奮戦して包囲を脱し掌旗官を討ち取るなどしたが、鄧紹良配下の戴文英・周天勝・儲玖窮らは戦死、降兵多数を出して敗走。李秀成は深追いせず兵を収め、劉長佑・江忠濬も敗報を聞いて撤退した。
  • 秀成は胡元煒に廬州守備を託し、鮑超が再攻してきた際に開くよう密書を残して漢陽救援に向かった。

漢陽再陥落の危機

  • 胡林翼は李秀成不在の隙を突き、王国才に紙坊、彭玉麟の水師に蔡店を攻めさせて周辺を制圧したうえで漢陽を包囲。譚紹洸は武昌へ急報しつつ籠城した。
  • 曾国藩は九江攻略に失敗して兵を引き、羅澤南・塔齊布を武昌攻めに転じさせたため、武昌からの援軍も出せず漢陽は孤立した。
  • 譚紹洸は東北の防備をわざと緩めて清軍を誘い込み、火薬を仕掛けて爆破する計を用いる。胡林翼は一度警戒したが結局は誘いに乗り、突入した兵の多くが爆死。しかし駱秉章配下の王開化軍も岳州方面から迫り、譚紹洸は挟撃の危機に陥った。

李秀成の到着と漢陽奪還

  • 危機一髪のところへ李秀成が上流から回り込んで胡林翼軍の背後を急襲。胡林翼は伏兵を警戒して撤退し、清軍は大敗して岳州へ退いた。
  • 李秀成は漢陽で譚紹洸の奮戦を称え、廬州で日を要したことを自らの落ち度と述べた。この戦功は洪天王に奏上され、譚紹洸への重賞が求められた。
  • 曾国藩も胡林翼の敗報を受け、武昌包囲を解いて撤退。李秀成は武昌に戻り、廬州・漢陽の戦況を天王に報告して指示を待った。

北伐をめぐる朝議の対立

  • 金陵平定後、太平天国内では兵の休養を優先し北伐は見送られていたが、武昌方面の連勝で諸将は北伐を強く求めるようになった。
  • 朝議で楊秀清は「北方の清軍は手薄で一部隊で足りる」と主張したが、軍師錢江は「北方の兵は容易に補充・調達できるため、国を挙げた大軍でなければ危険」と反論。楊秀清はさらに南方戦線への影響を懸念したが、錢江は李秀成一人で湖北・安徽は支えられると応じ、洪天王も錢江の主張を支持した。
  • 林鳳翔が自ら北伐を志願するが、天王は自ら親征すべき重大事と難色を示す。石達開は天王親征なら従うが、そうでなければ意見を控えると述べた。

錢江・石達開・韋昌輝の密談

  • 錢江は楊秀清が実権を握ったまま林鳳翔に北伐を委ねようとしている裏に、燕京奪取後の私意があると見抜き懸念する。
  • 石達開が訪ねてきて林鳳翔の器量を問い、続いて韋昌輝も訪れ「楊秀清は自ら北伐の実権を握りたいが金陵も離れがたく、林鳳翔に押し付けている」と私意による国事の誤りを非難、東王誅殺すら口にする。
  • 錢江はまだ罪状が明らかでない以上軽挙は禁物と諫め、翌日の朝議で林鳳翔起用に反対しきれなければ、自ら大軍を率いて後詰めすると三人で合意した。

林鳳翔、独断の北伐出兵

  • 翌朝、状元劉統監が「東王がすでに林鳳翔に十万の兵を与え北伐へ出発させた」と急報。錢江は自らの過去の判断(早期に楊秀清を除かなかったこと)を悔いるが、もはや後の祭りだった。
  • 錢江は李秀成が東王に与しない人物であり、東王は単に彼を懐柔しているに過ぎないと分析し、林鳳翔を先発させたうえで自らは天王とともに後続の大軍を率いる方針を固めた。韋昌輝だけは押し黙って先に席を立ち、錢江は石達開にその不穏な様子を密かに警戒させた。

林鳳翔の揚州攻略

  • 太平天国四年、六十三歳の林鳳翔が東王の命を受けて北伐に出発。出発前に錢江を訪ね、揚州から淮水を渡り山東を経て天津を急襲する策を語り、錢江は持重を説きつつ後詰めを約束した。
  • 林鳳翔は十万の兵を三十六軍に分け、曾立昌・朱錫琨を左右の先鋒として揚州へ向かった。
  • 清側は勝保の黒龍江馬隊や陳金綬配下の兵を集め、琦善のもとで会戦の方針を決定。林鳳翔軍は揚州郊外の紫徒廟に布陣し、廿四橋・法海寺方面にも兵を配して包囲態勢を敷いた。夜には旌旗を整え、十余里にわたり灯火を連ねて鼓角を鳴らし、清軍を威圧して大いに動揺させた。