金史卷一百三十二 列傳第七十 逆臣

序――春秋の筆法

昔孔子は春秋を作り乱臣賊子を懼れさせた。その法に五つある。微而顕、志而晦、婉而成章、盡而不汚、懲惡而勧善。懲悪はすなわち勧善のためである。逆臣伝を作る。

秉德(本名伊遜)――熙宗弑逆の首謀者、後に誅殺される

秉徳、本名伊遜は初め西南路招討使、汴京留守に転じ母の喪に起復し兵部尚書から参知政事を拝した。皇統八年烏凌阿富勒呼らと廉察郡県に赴き還ると平章政事を拝した。廷議で遼陽の渤海人を燕南に屯させる案が出た際、秉徳と左司郎中薩哈がこれを議したが、近侍髙寿星が徙民に含まれることに反発し悼后に訴え、后が帝に告げると帝は怒り秉徳を杖打ち薩哈を殺した。当時熙宗は在位久しく悼后が政に干渉し継嗣が未立で帝は不機嫌となり度々宗室を殺し大臣を鞭辱した。秉徳はこの故に忿を懐き唐古辯・烏達らと廃立を謀った。烏達がこの謀を海陵に告げ、海陵は秉徳と共に熙宗弑逆を謀った。皇統九年十二月九日、秉徳・唐古辯・烏達・呼圖・額哷楚克・大興國・李老僧・海陵の妹婿塔斯は寝殿で熙宗を弑した。秉徳の初意は海陵を推すことになかったが、熙宗を弑した後帰属先が定まらぬうちに呼圖が海陵を擁して座らせると秉徳らは皆拝して万歳を称え、曹国王宗敏・左丞相宗賢を殺した。当時秉徳の地位は海陵より上であったが、杖打たれた怨みから廃立を謀り海陵がこれに乗じて乱を為したのだった。海陵の即位後秉徳は左丞相兼侍郎左副元帥に任じられ蕭王に封ぜられ鉄券と銭二千万・絹千匹・馬牛各三百・羊三千を賜った。まもなく烏達に讒られ行台尚書省事を領させられ、告身中に十日以内の出発を限られた。海陵が太宗諸子を除こうとした際秉徳も除かれることになったのは、秉徳が廃立を首謀し熙宗を弑しながらも即座に勧進しなかったことを海陵が咎めていたためである。烏達は秉徳が宗本と謀反したと告発し「秉徳はかつて宗本の家で飲酒した、海州刺史の子忠は秉徳に福貌があり趙太祖に類すると言い、秉徳は偃仰して笑ってこれを受けた、私の妻は秉徳の妻が主上を指斥する不遜な言葉をしばしば口にしたと言い、秉徳と宗本が別れる際の言葉は特に甚だしく厯数の帰趨を語った、秉徳は刑部侍郎満都に『以前語ったことをまだ覚えているか』と尋ねたが、満都は『命が危うい状況でどうしてそんな話ができようか』と答えた」と述べた。この逆状は明らかとされ、海陵は行台に使者を遣わし秉徳と前行台参知政事烏凌阿賛謀を殺させた。賛謀は秉徳の乳母の子であった。初め賛謀は前行台左丞温都思忠と共に行台にあったが思忠は貨を貪ることが甚だしく賛謀はこれを薄んじ隙が生じ、思忠はこの機会に賛謀とその子を共に誣告し殺した。賛謀は跪いて刑を受けることを拒み立ったまま縊殺された。海陵は賛謀の家財奴婢を全て思忠に賜った。秉徳と烏達は口舌の争いにより怨みを買い、死後その弟の図哩嘉哩及び宗翰の子孫三十余人が皆殺され宗翰の後は絶えた。世宗即位後秉徳の官爵は追復され儀同三司を贈られた。初め薩哈が薨じると宗翰がその明安親管穆昆を襲い、秉徳の死後海陵はこれを烏達の賞として与えその子烏達布に伝えられた。大定六年世宗は宗翰に後がないことを憐れみ詔で明安穆昆を薩哈の曾孫佛們に還し、使者を遣わし薩哈と宗翰を山陵西南二十里に改葬させ百官が家産を近親に給し祭祀を奉じさせた。秉徳の死後その中都宅第は左副元帥杲が居り、杲の死後海陵の遷都に伴い嫡母図克坦氏がここに居ったが図克坦氏が遇害されると世宗はその不祥を嫌い仏寺に施した。

唐古辯(本名翁鄂羅)――駙馬にして弑逆の刀を執った者

唐古辯、本名翁鄂羅は熙宗の娘代国公主に尚し駙馬都尉となり累官参知政事尚書左丞に至った。右丞相秉徳と廃立を謀ったが烏達がこれを海陵に告げ、海陵は辯に「我らが匡救できなければ旦暮に禍が及ぶ、大事を行うべきだが誰を立てるべきか」と問い、辯は「胙王常勝ではどうか」と答えた。次を問われると「鄧王の子阿林だ」と答え、海陵が「阿林は疎属だ、立てられるだろうか」と言うと辯は「公にはお考えがあるのか」と問い、海陵は「もしやむを得ないなら私を措いて誰があろうか」と答え、以後密謀を重ねた。護衛将軍塔斯がこれを疑い悼后に「辯らは間を伺い互いに窃かに語り合っている、何を議しているのか分からない」と告げ、悼后が熙宗に告げると熙宗は怒って辯を責め「爾と亮(海陵)は何を謀っているのか、私にどうするつもりか」と述べ杖打って追い返したが、これ以降謀はいよいよ深まった。十二月九日、代国公主が母悼后のため寺で仏事を行った隙に、海陵・秉徳らは辯の家に集まり、夜になると刀を衣の下に隠して共に宮門に入った。辯は駙馬であったため疑われず、皆内に招き入れられた。殿門に至ると直宿の護衛が覚ったが辯は刀を挙げて叱り動かさせなかった。熙宗を弑して海陵を立てると、辯は尚書右丞相兼中書令に任じられ王に封ぜられ銭二千万・絹千匹・馬牛各三百・羊三千と鉄券を賜り、進んで左丞相を拝した。父の彰徳軍節度使重国は東平尹に遷った。初め辯が海陵と謀逆を計った際、辯は自分の家奴に使える者が多いと語っており海陵は既にこれを心に留めていた。弑逆の夜、興国が宮を出るのを待ち辯の家に集まった際、辯は饌を設けたが衆は皆恇懼して食べられなかったが辯独り飽食して自若としていた。海陵はこれによりその忮忍を知り畏忌するようになった。即位後、太祖の画像を辯と共に観た際、海陵が「この目はお前に似ている」と述べると辯は色を動かし海陵も色を動かした。以後海陵は辯をますます疑い忌むようになり、蕭裕と共に宗本の罪を構陥する謀に及び、辯がかつて宗本と謀反したとして殺した。父の重国は坐して官を奪われたが正隆二年沂州防禦使に起用され清州防禦使に改まり、大定初年重国は図克坦巴噶と共に政跡が著しく知られ安国・彰化・横海軍節度使を歴任した。後に辯の子孫が上書し「辯は天徳間に死んだ、祖の重国もその罪により追削された」と述べ、正隆初年重国は既に官職を復していたことから辯の官爵の追復を乞うたが、この時海陵は既に庶人に降されており辯の弑逆への関与により本名を言うことすら許されなかった。

烏達――秉徳を陥れた行台左丞相

烏達は行台左丞相阿里布の子。熙宗時代累官大理卿。熙宗晩年喜怒が定まらず大臣は往々危懼した。右丞相秉徳・左丞唐古辯が廃立を謀った際烏達は海陵の許に赴きこれを告げ、共に熙宗を弑逆した。海陵の即位後烏達は平章政事となり許国王に封ぜられ銭絹馬牛羊鉄券を他の共謀者と同様に賜った。烏達の妻唐古氏は淫泆な性格で以前から海陵と通じ、また家奴閻乞児とも私通していたが、秉徳がこれをかつて熙宗に指弾したことを烏達は恨んでいた。当時海陵は多忌で病中まもなく癒えた頃、烏達は秉徳が「主上が数日朝視しないのはもし不諱があれば誰が継ぐのか、私は主上に皇子がいると言ったが、秉徳は『嬰児がどうして天下の大任を勝てようか、必ずや葛王(海陵)だ』と言った」と誣告した。海陵はこれを実として秉徳を出し、まもなく殺した。秉徳の世襲明安穆昆を授けられ烏達は右丞相に進んだ。烏達は宗本と親戚であったが、海陵は烏達が秉徳の事を告げたことでこれを信任し宗本の禍にも烏達だけは免れた。烏達は秉徳の千戸穆昆及びその子婦の家産を全て賜り、司空左丞相兼侍中に進んだ。数か月後烏達は早朝の日が陰晦で雨の兆候があると考え海陵は朝視しないだろうと先に趨り退朝し百官も皆従って去ったが、まもなく海陵は殿に御し烏達が百官を率いて先に朝を出たことを知り悪んだため司空を落とされ崇義軍節度使に出された。後に海陵は唐古氏の容色を思慕し彼女の侍婢が候問に来た際、海陵は皇后に立てることを許し烏達を殺させた。海陵は烏達の哀傷を偽装し、その子烏達布に金符を佩ばせ駅を乗り継ぎ喪に赴かせ、烏達を王として追封し有司に霊車を送らせ絹三百を道途費として賜り、唐古氏を宮中に納れて貴妃に封じた。烏達布は明安穆昆を襲い、大定六年明安穆昆が薩哈の曾孫に還される際、阿里布の穆昆を烏達布に授けた。烏達布は終に同知大興尹に至った。子の塘、本名烏雅阿巴は曾祖阿里布の功により筆硯祗候に充てられた。

大興國――符鑰を用いて宮門を開いた寝殿奉御

大興國は熙宗の寝殿実達爾権近侍局直長として最も親信され左右を離れなかった。夜が更け熙宗が就寝すると興國は主者から符鑰を受け取り家に持ち帰り、出入りする者にそのまま渡すのが常であった。皇統九年海陵の生日、熙宗は興國に宋司馬光の画像及び他の珍玩を持たせ海陵に賜らせたが、悼后もこれに付して物を賜ったため熙宗は不悦となり興國を杖百とした。海陵は弑逆の謀を先に興國に伝え宮内への手引きとしようとし、興國が無罪で杖打たれ怨望の心があるだろうと考え李老僧を介して結んだ。異心のないことを確認すると臥内に召し衣を解かせ共に臥せようとしたが、興國は固辞して敢えて応じず「用があれば大王の命に従うのみです」と述べた。海陵は「主上は理由なく常勝を殺し、また皇后を殺し常勝の家産を阿林に賜り、また阿林も殺した後私にこれを賜った、私は深く憂えている、どうしようか」と述べると興國は「これは確かに憂うべきです」と答えた。海陵は「朝臣は旦夕危懼し皆自保できない、先の私の生日、皇后が物を付して賜ったばかりに君は杖打たれ、私も疑われている、主上はいつも『いずれ君を殺すだろう』と言っている、私と君は共に免れられない、いっそ坐して死を待つより大事を挙げるべきではないか、私は大臣数人と既に議を決めた、君はどう思うか」と述べ、興國は「大王の言うとおり、事を緩めてはなりません」と応じ、十二月九日夜に事を起こすことを約した。興國は符鑰を持ち門を開き矯詔で海陵を招き入れ夜二更、海陵・秉徳らは入り、熙宗が常に佩刀を御榻の上に置いていたことから、興國は先にこれを榻下に取り除いておいた。乱が起こると熙宗は佩刀を求めたが得られず弑された。海陵の即位後興國は廣寧尹に任じられ奴婢百口・犀玉帯各一・銭絹馬牛・鉄券を他の共謀者と同様に賜り金紫光禄大夫に進み、さらに銭千万・黄金四百両・銀千両・良馬四匹・駝車一乗・橐駝三頭・真珠巾・玉鈎帯・玉佩刀・玉校鞍轡を賜った。天徳四年崇義軍節度使に改まり「邦基」の名を賜り絳陽武寧節度使、河間尹を歴任、世宗即位後家に廃され海陵から賜った物は全て奪われた。大定中邦基の兄邦傑が京兆判官から還った際、世宗は「大邦傑は弟の縁で仕官しているが、どうして再用できようか」と述べその子弟の贈父官及び海陵から賜った物を併せて罷した。海陵が庶人に降された際、詔で「大邦基は海陵と共謀し弑逆した、今まで誅を逋れていたのはすでに幸いに過ぎる」として思陵の側で磔にされた。

圖克坦額哷楚克――刃を先んじた護衛十人長

圖克坦額哷楚克は会寧克木訥赫噶珊の人で懿州に徙り、父の巴噶は太祖時代に戦功があり穆昆・哈斯罕軍帥を領した。皇統四年兵部侍郎から天徳軍節度使、興中尹に転じ宗幹と代々姻戚であった。皇統九年額哷楚克は布薩呼圖と共に護衛十人長となり、海陵が熙宗を弑逆しようとするにあたり二人を内応として得ようとし、額哷楚克の子に自分の娘を嫁がせると約し逆謀を告げた。額哷楚克は素より凶暴でこれを喜び「阿家(岳父)よ、この言葉はなぜこんなに遅かったのか、廃立の事も男子のなすべきこと、主上は天下を保てず人望はあなたに集まっている、今日の謀こそ私の素志だ」と述べ、呼圖と共に十二月九日禁中に直宿した。海陵はこの夜二更に宮に入り寝殿に至った際、額哷楚克が先に刃を進め呼圖が次いだ。熙宗が頓仆すると海陵はさらに刃を加え、血がその顔と衣に飛び散った。海陵の即位後額哷楚克は右副点検に任じられ銭絹馬牛羊を他の共謀者と同様に賜り、子の珠蘇爾は栄国公主に尚し和尼で昭毅大将軍駙馬都尉となった。天徳二年東京留守、儀同三司に進み八月河間尹に改まり世襲臨潢府路実喇明安領親管穆昆となり、まもなく憂により去職起復し太原尹に封ぜられ王に封じられた。額哷楚克は自ら佐立の功があり鉄券を受けたことを恃み凶狠がいよいよ甚だしく僚属を奴視し少しでも意に忤らえば箠辱に恤みがなかった。ある時卜者髙鼎に休咎を問い、鼎が占ったところを張旺且に告げると、旺且も天命があるはずと述べ、額哷楚克は喜んでこの言葉を鼎に告げた。鼎はこれを上変し額哷楚克は伏誅、その妻及び旺且も殺された。海陵は子の珠蘇爾にその屍を焼かせ骨を水に投げさせた。巴噶は西京留守から西南路招討使・忠順軍節度使に転じ勧農使に入り、再び河間尹となり臨洮尹に改まり工部尚書に入り興平軍節度使・済南尹を経て卒した。

布薩師恭(本名呼圖)――宗幹の恩顧により内応した護衛

布薩師恭、本名呼圖は上京羅卜科達巴の人で本来微賎の出であったが、宗幹がかつて周恤し宿衛に置かれ十人長に至った。海陵が謀逆に際し呼圖が宗幹の家出身で恩があることから内応とすることを考え「一つ君に言いたいことがあった、人に漏れるのを恐れて言えずにいた」と告げると、呼圖は「肌肉の外は皆先太師(宗幹)から賜ったものです、もし国に補いがあるなら王のために死んでも辞しません」と答えた。海陵は「主上は道を失った、私は廃立を行おうと思う、必ず君の助けが要る」と述べ呼圖はこれを許した。十二月九日呼圖が直宿する隙に、海陵はこれによって宮に入り寝殿に至った。熙宗は歩屣の音を聞き咄したが衆は皆却って動けなかった。呼圖は「事ここに至って進まねば得られない」と述べ皆で扉を排して入った。熙宗を弑した後、秉徳らはまだ帰属先が定まらず、呼圖は「始め議は平章を立てることだったのに今さら何を疑うのか」と述べ海陵を座らせ衆前で万歳を称え、まもなく曹国王宗敏を召し呼圖に殺させた。即位後呼圖は左副点検に任じられ銭絹馬牛羊鉄券を賜り都点検に転じ名を師恭と改め会寧牧に遷り太子少師工部尚書を拝し王に封ぜられた。まもなく憂で解職し起復して樞密副使から樞密使を拝し、貞元三年右丞相、正隆初年太尉、再び樞密使に、憂で去るも起復して太尉樞密使に。海陵が汴京に至ると師恭に第一区を寧徳宮の隣に賜った(宮は図克坦太后の居所)。師恭は常に太后に入見していた。契丹の薩巴が反乱した際海陵は師恭に蕭懐忠と共に北伐させたが、出発前に師恭は寧徳太后に辞して久しく語り合い、海陵はこれを聞いて悪み太后との異謀を疑った。当時蕭圖喇・斡喇布は契丹薩巴と連戦しても功なく糧運が続かず臨潢に退軍していたが、薩巴は師恭の大軍が至ると聞き達実に帰属することを謀り龍駒河沿いに西へ去った。師恭は臨潢に至り追撃したが及ばず、海陵は樞密副使白彦敬らに薩巴討伐を命じ師恭は還らせ、子の呼沙呼に駅で迎えさせ執えて市で戮した。師恭は刑に臨んで縛られ口を塞がれ発言できず、ただ首を挙げて天を仰ぐのみであった。族滅され蕭圖喇・蕭賾・蕭懐忠の家も共に誅された。大定初年皆官爵を復されたが海陵の庶人降号に伴い師恭は弑逆に関与したとして再び削られた。世宗が上京行幸で羅卜科達巴を過ぎた際、師恭の族人臨潢尹守中・定逺大将軍阿爾図らも皆官を奪われた。二十八年上は宰臣に「海陵は布薩師恭・蕭図喇・蕭懐忠に薩巴を追わせ及ばず皆誅を受けたが、族を夷したのはあまりに虐に過ぎたのではないか」と問うと、平章政事襄は「当時臣は軍中にあった、師恭・賾には精甲一万三千余があり賊軍は多くとも脅従の人が多く氈紙の甲で対処しやすかった、呼圖らが恇怯し遷延したため賊は逃げてしまった」と答え、上は「もしそうならば誅されても仕方ない」と述べた。師恭の兄は歓塔。

圖克坦貞(本名塔斯)――戚畹として辛くも生き延びた駙馬

圖克坦貞、本名塔斯は特赫必喇の人。祖の抄は太祖の遼討伐に功があり世襲明安を授かった。父の博勒和は戦功により累官開府儀同三司に至った。貞は遼王宗幹の娘(海陵の同母妹)を娶った。皇統九年貞は海陵と共に熙宗を弑し、海陵の即位後貞は左衛将軍に任じられ妻の平陽長公主に封ぜられ貞は駙馬都尉・殿前左副点検に転じ都点検・太子少保を兼ね王に封ぜられ大興尹に改まり都点検のまま臨潢府路和索哩明安を授けられた。二年後海陵は貞を召し「お前は幼くして常に左右にあり微労は著しいが近日は怠忽で罪があっても私恩に頼っている、およそ人は富貴で驕れば死の徴だ、お前が心を制せねば無所不至となる、死を賜ってもなお何を辞せようか、朕は弟の襄及び公主とお前が同胞であることを念じあえて少し懲戒する」と諭した。貞はただ号泣し即日点検職を解かれ大興尹に留められ「今後勤めを励めば朕は考慮する、さもなくば爾を黜けて田里に還す」と戒められた。ひと月後再び都点検大興尹に復した。正隆二年例により瀋王に封ぜられ樞密副使に遷り佩刀を賜り宮に入り同判大宗正事に転じた。海陵の伐宋にあたり朝官には三国人使を除いて宴飲を禁じ、その他で飲酒すれば死とする詔が出された。六年正月四日立春節、益都尹京・安武節度使爽・金吾上将軍阿蘇が貞の第で飲んでいたところ、海陵は周福爾に土牛を賜らせたが貞の第でその様子を見て告げ、海陵は貞を召し詰問した。貞らは伏地して死を請うと、海陵は「お前らがもし酒で人を殺すのを重すぎると諫めたのなら理解できる、古人は三諫聴かれずとも君命に従うものだ、魏武帝は軍行の令で麦を犯した者は死とし、自分の乗った馬が麦に入ると髪を割いて自刑した、麦を犯す微事すらこれほど信を示そうとしたのに、朕は天下の主として法が貴近に行えないのか、朕は慈憲太后の子四人のうち朕と公主だけが在り、京らは近属である以上曲げて死罪を許す」と述べ貞は杖七十、京らは各杖百とされ、貞は安武軍節度使に降され京は灤州刺史、爽は帰化州刺史に降された。まもなく貞は御史大夫を拝し本官のまま左監軍として伐宋に従い揚州に至り海陵は死して北還した。世宗に中都で見え、詔で貞の娘を皇太子妃とし、貞は太原尹から咸平尹に改まったが咸平で貪汚不法の贓が巨万に及び真定尹に徙された際発覚し、世宗は大理卿李昌図に鞫させ貞は即座に伏罪した。昌図が復命すると上は「貞は既に停職か」と問い「未だです」と答えたため上は怒って昌図を罪し、改めて刑部尚書伊喇道を真定に遣わし問わせ贓は主に還させた。有司が贓を還すのに時を移したため、上は先に官銭で還させ貞には官に納めさせた。貞は博州防禦使に降され妻は清平県主に降された。まもなく震武節度使に遷り戒勅を受け「朕は卿の懿戚を念じ考満を待たずして大鎮に遷らせた、これは非常の恩だ、二度と過ちを犯すな」と告げられ、河中尹に転じ妻は任国公主に再封され黄金百両・重綵二十端・擊毬馬二匹を賜り束京留守に改まり玉吐鶻・弓矢を賜り妻には銭万貫が賜られた。有司が海陵の庶人降号後宗幹が帝を称すべきでないと奏したため、宗幹は社稷の功があるとして遼王に追封され、その子孫と諸女は皆降号され貞の妻も永平県主に降された。貞自身も儀同三司から特進に降り明安を奪われ駙馬都尉と称せなくなり再び臨潢尹に徙された。熙宗を弑した九人のうち、海陵は暴虐によって自斃、秉徳・辯・呼圖・額哷楚克は疑いで殺され、烏達は妻の縁で殞し、李老僧は反により誅され、この時点で貞と大興国のみが在ったが、興国は擯斥され用いられず、貞のみが世姻の縁で寵を篭められていた。しかし夫婦の爵号を削られたことからも分かるように、世宗は乆遠の私恩に頼らせなかった。久しくして詔で貞とその妻及び二子の慎思・実禄が誅され、諸孫は宥された。まもなく興国も誅された。皇統の逆党は尽きた。章宗即位後母皇太子妃を皇太后と尊号し、貞を太尉梁国公と追封した(貞の祖抄は司空魯国公、父の博勒和は司徒斉国公を追贈、貞の妻は梁国夫人、子の特布赫・慎思・実禄は俱に鎮国上将軍とされた)。まもなく貞は再び太師廣平郡王を贈られ諡は荘簡、妻は再び梁国公主に封ぜられた。

李老僧――内側から興国を導いた首謀者

李老僧は旧く将軍司書吏で大興国と親しく厚く交わっていた。海陵が秉政すると興国は老僧を海陵に紹介し海陵は省令史とした。事を挙げるにあたり老僧に興国を結ばせ、興国が最終的に海陵のために符鑰を取り宮中に導いたのは老僧の働きによる。海陵の即位後老僧は同知廣寧尹事に任じられ銭千万・絹五百匹・馬牛各百・羊二千を賜った。久しくして海陵は韓王亨を悪み殺そうとしたがその罪を見つけられず亨を廣寧尹に任じ老僧を再任させ亨の罪を伺わせ構陥させようとした。亨は博打を好み老僧と共にしばしば博打をし厚遇したため老僧は忍びず亨を死罪に陥れる意を失い遅疑していた。海陵は再び実達爾額琳を遣わして老僧を促し、老僧はやむを得ず亨の家奴禄錦と謀り獄中で亨を殺した(詳細は亨伝)。耶律安礼がこの後廣寧から朝に還った際、海陵は「伯特(爽)は三罪あったがその一つを伏せ既に不平が漏れていた、彼は梁王の故吏だ、もし亨の罪が伏したなら親族も罪せられ榜殺していただろう」と述べ、老僧が亨に遅回意を持っていたことから老僧を易州刺史に降し、久しくして同知大興尹に遷り「惟忠」の名を賜り延安府同知に改まった。大定二年兵部尚書克実と反乱を謀り誅殺された。

史論――寝殿・護衛の臣を戒める

「書」に「王の左右、常伯・常任・凖人・綴衣・虎賁」とあり、周公は「ああ、これを慎むこと少なし」と述べた。穆王は伯冏に「乃の僚を慎み簡べ、巧言令色便辟側媚を用いず、ただ吉士のみ用いよ」と告げた。金人のいう寝殿実達爾は周の綴衣に相当し、護衛は周の虎賁に相当する、これらは皆羣僕侍御の臣である。海陵の弑逆に際し興国・呼圖・額哷楚克が扼&KR0034;(喉と背)となったのは皆実達爾・護衛の中から出た。熙宗はこれを恤むことを知らなかった。ある日熙宗は宗侍と飲酒し夜稽古殿に火が出て往視しようとした際、都点検希卜蘇が帝の裾を引いて止め「臣がここにいる以上陛下が何を心配することがありましょう、どうか親往されませんよう」と奏した。熙宗は酔いに任せこれを甚だ怒って杖打ち出したが、後にその忠を思い再び召用した。海陵と唐古辯がしばしば人を屏して私語した際、護衛の塔斯がその異常さを察知したが海陵は塔斯を除いて殺した。皇統末年、群臣は解体し尊君謹上の心を失い、群姦が竊発したが僕御の臣に希卜蘇や塔斯のような者はもはやいなかった。「綿」の詩に「予に疏附あり、予に先後あり、予に奔走あり、予に禦侮あり」とある。ああ、先後・禦侮の臣はどうして欠かせないものであろうか。

完顔元宜(本名阿里)――海陵を弑した都将

完顔元宜、本名阿里、一名伊徳訥は本姓耶律氏、父の慎思は天輔七年宗望が遼主を天徳に追撃した際降を来し、夏人が兵をもって遼主を迎え渡河させようとするのを聞き宗望が夏人に禍福を諭す書を出したところ夏人は止め、慎思に完顔姓を賜り官は儀同三司に至った。元宜は騎射に便り撃毬を善くし皇統元年護衛に充てられ累遷して額勒本群牧使から武庫署令、符宝郎に転じ、海陵の簒立後兵部尚書となった。天徳三年詔で賜姓者は皆本姓に復すこととなり元宜は耶律姓に復し、順義・昭義節度使を経て兵部尚書兼勧農使に戻った。海陵の伐宋にあたり本官のまま神武軍都総管を領し大名路騎兵万余を前鋒に益し、淮を渡り昭関を抜き柘臯で宋兵万余に遭遇し力戦して退け、和州に至ると宋兵十万が拒み元宜は麾軍力戦し暮に至り止まった。宋人は夜襲したが元宜はこれを撃退し黎明に追撃、数万を斬首し功により銀青光禄大夫に遷った。海陵は浙西路都統制使を新設し元宜が領し諸軍が渡江するのを督し金牌を佩び衣を賜った。当時世宗が既に遼陽で即位しており軍中は多く去就に迷い、海陵の軍令は慘急でいよいよ渡江を欲していたため衆は逃亡を欲し、明安唐古烏頁は元宜に「淮渡に阻まれれば皆捕らえられる、遼陽で新天子が即位したと聞く、共に大事を行い軍を北に還すべきだ」と決を求め、元宜は「王祥が至るのを待って謀ろう」と答えた(王祥は元宜の子で驍騎副都指揮使、別軍にあった)。元宜は密かに王祥を召し、翌日衛軍の交代を約して事を行うこととし、まず衆を欺いて「渡江の命が明日にある」と告げ、皆恐懼して挙事を告げると許諾した。十月乙未黎明、元宜・王祥は武勝軍都総管図克坦守素・明安唐古烏頁・穆昆斡喇布・羅索・温都長寿らと共に衆を率いて御営を犯した。海陵は乱を聞き宋兵が奄至したと疑い衣を攬って急ぎ起き、箭が帳に入るとこれを取り視て愕然として「これは我が兵だ」と述べた。大慶善は「事は急です、避けるべきです」と述べたが海陵は「どこへ避けろというのか」と述べ弓を取ろうとした時に箭に中り仆れた。延安少尹納哈塔斡喇布が先に刃を加え手足がなお動いていたのを縊り殺した。驍騎指揮使大磐が兵を整えて救援に向かうと王祥は「もう間に合わない」と告げ大磐は止めた。軍士は行営の服用を全て奪い尽くし、大磐の衣巾で海陵の尸を包み焼いた。尚書右丞李通・浙西路副統制郭安国・監軍徒単永年・近侍局使梁珫・副使大慶善を皆殺した。元宜は左領軍副大都督事を行い使者を南京に遣わして皇太子光英を殺した。大軍北還後大定二年春入見し御史大夫を拝し「髙楨が御史大夫として正直と称されながらも煩碎に渉ることが多かった、臣下の衣冠が正しくなければこれも紏挙されるが、爾はもっと重要な事に努めるべきだ」と詔された。まもなく平章政事を拝し冀国公に封ぜられ玉帯と甲第一区を賜り再び完顔姓を賜り泰州路規措討契丹事に赴いた。元宜は忠勇校尉李栄に斡罕への招降を命じたが斡罕は栄を殺し、詔で栄に官四階が追贈された。五月上は元宜が還ろうとしていると聞き使者を遣わし止めたが契丹はすでに平定されており元宜は還朝し諸群牧の鎧甲増強を奏請しこれに従い各群牧に二十副が増された。臨潢戍軍の馬の増加を求め詔で馬六百匹が給された。久しくして東京留守を罷され賜甲第を還すことを乞い上はこれに従い襲衣・吐鶻・廐馬・海東青鶻を賜り致仕、家で薨じ上は使者を遣わして祭を賻贈厚くした。大定十一年尚書省が納哈塔斡喇布の除授を擬した際上は「昔海陵を廃したこの者が首として弑逆に入った、人臣の罪でこれより大きなものはない、どうして再び官を加えられようか、世襲穆昆させることは姑くそのまま旧に従わせるが」と述べた。大定十八年濟嚕海が上言「およそ人臣として災を捍ぎ侮を禦ぐ功のある者は録用すべきだが、今海陵を弑した者を功ありとして高爵で賞するのは事君を勧めるゆえんではない、削奪してこそ人臣の戒めとすべきだ、臣は当時その党にあったが正名定罪をもって臣から始めることを請う」と述べたため、上は「濟嚕海は自らその罪を請いこれをもって事君を勧める、これも人の難とすることだ」と述べ濟嚕海を趙王府祗候郎君に充てた。元宜の子薩尼雅布は大定二十五年符宝祗候となり女直人の例で遷官を乞うたが、上は「賜姓は一時の権宜だ」として薩尼雅布を本姓に還らせた。

史論――弑逆者の系譜

春秋には「斉公子商人その君舎を弑す」とあり、また「斉人その君商人を弑す」とある。舎を弑したのは商人であり、商人を弑したのは邴歜と閻職であった。海陵が熙宗を弑したのは商人の弑に相当し、邴歜と閻職はこれを去ったが、完顔元宜が海陵を弑したのも商人の弑に相当する。世宗に帰したのだ。邴・閻は賤役であったが元宜は都将であり君の親兵を握り利を窺って弑した、その罪はどうして誅を容れずにいられようか。世宗はかろうじて大用せずに済ませたのみである。濟嚕海はなお自首して人を殺した者に例えられよう。律において殺人は自首すれば罪を免れるという先例はなく、まして賞を与えるべきではない、まして弑逆をなおさらである。海陵の殺(弑逆)から五十三年後、また呼沙呼の事があった。

赫舍哩執中(本名呼沙呼)――衞紹王を弑した都元帥

赫舍哩執中、本名呼沙呼はアスの裔孫で東平路明安に徙った。大定八年皇太子護衛に充てられ太子僕丞から鷹坊直長に改まり再遷して鷹坊使・拱衛直指揮使。明昌四年珠卜竒監酒官伊喇保の出迎えが遅れ酒味が薄いことに怒って毆傷し、詔で杖五十の処分を受けた。まもなく右副点検に遷ったが放縦傲慢で失職し肇州防禦使に降され、翌年興平軍節度使に遷り母の喪に起復し帰徳軍節度使、開遠軍に改まり西南路招討副使を兼ね知大名府事に転じた。承安二年簽樞密院事に詔され丞相襄の征伐を佐けるよう命じられたが行くことを欲せず「臣は襄と隙があり殺されるでしょう」と奏し上はその不遜な言葉を怒り有司に下したがまもなく赦され永定軍節度使に出て西北路招討使、再び永定軍に改まり部軍馬を奪われ解職された。泰和元年知大興府事に起用され、詔で契丹人立功の官賞は女直人に同じとし馬匹保有と司吏訳人への就任を許すとされたが執中はこの詔を格上げして下さず、上に責められた際「汝は防閑の意でこう振舞ったのだろうが朝廷には既に定めた格があることを知らねばならない、今後二度と煩碎に生事するな」と告げられ詔を行うことになった。淶州の魏廷実の祖の任兒は元々靳文昭の放良(解放奴隷)で天徳三年正戸に編籍されて既に三世経っていたが、文昭の孫の勍が廷実を奴と詆り妄訴し警巡院で対決したが根拠がなく勍は本貫に訴え直すよう命じられた。勍は府に訴え、執中は廷実に銭五百貫を勍に納めるよう命じたが廷実は従わず淶水に還ったところ執中は鎖して直接廷実を連行させた。御史台は執中に事情を問おうとしたが執中は転奏し、御史台は制府による処断を経ずに移問した点を批判し詔で吏部侍郎李炳・戸部侍郎鈕祜祿哈達に推問させると、炳と哈達は御史台の理が正しいと奏し、詔で執中は厳しく責められた。御史中丞孟鑄も執中の貪残専恣不奉法令を弾劾し「恩貸を蒙って後累々と過ちを重ね跋扈を生じている、雄州で馬を詐って認め、平州で俸を冒支し、魏廷実の家の冡墓を発き、拝表に赴かず祈雨の際に妓を聚めて同僚を毆詈し、勝手に停職させるなど師帥の体をなさず京尹の任に称さない」と述べた。上は「執中は麤人で跋扈の疑いがある」と述べると鑄は「明天子が上にいる限りどうして跋扈の臣を容れられましょうか」と答え、上の意が動き奏章を閲した。詔で尚書省に問わせ武衛軍都指揮使に改まり、平章政事布薩揆の河南宣撫の際山東東西路統軍使に除せられ、揆が汴京行省して伐宋するにあたり諸道統軍司を兵馬都統府に昇格させ、執中は山東両路兵馬都統定海軍節度使となり完顔薩喇が副となった。執中は金城朐山に兵を分駐させ東平路の兵を宻・沂・寧海・登・莱に益派し兵衝を遏ることを請い詔に従った(泰和六年四月)。五月宋兵が金城を犯すと執中は巡検使州努に騎兵三百で禦がせ、宋の増兵が沭陽に転じると穆昆薩哈が篁竹に伏卒五十人を置き宋兵が過ぎる際突出して撃ち十数人を殺し県城まで追撃、宋兵は出ず、州努が入城すると宋兵は城を越えて逃げ薩哈はすでに舟を焼き合撃して大破した。宋の統領李藻を斬り忠義軍将呂璋を捕らえた。十月執中は兵二万で清口に出撃、宋は歩騎万余・戦艦百艘で南岸から上流を拒み数日相持したが、執中は舟兵二千で搏戦し宋舟兵を遏め、副統伊喇古尼に精騎四千で下流から渡らせると宋兵は騎兵の南岸登陸を見て水陸ともに潰れ追撃で多くが斬られ溺死、戦艦・戦馬三百を得て淮陰を克し楚州を包囲、元帥左監軍に遷った。執中が虜掠を縦にしたため上はこれを聞き経歴官伊爾必斯を杖打ち掠奪物を還らせた。まもなく宋人が講和を請い罷兵、西南路招討使に除せられ西京留守に改まった。大安元年世襲穆昆を授かり再び知大興府事、知太原府事から西京留守行樞密院兼安撫使を経て、勁兵七千で大兵と定安の北で戦い薄暮に麾下を先に遁走させ衆は潰れ、蔚州で擅に官庫の銀五千両及び衣幣諸物を取り官民の馬を奪い私行人と共に紫荊関に入り淶水令を杖殺したが中都朝廷は問わなかった。まもなく右副元帥に遷り権尚書左丞となり、執中の傲慢はいよいよ増し自ら歩騎二万を屯宣徳州に置くことを請い三千を与えられ媯川に駐屯させた。崇慶元年正月執中は南口あるいは新荘への屯移を乞い尚書省に文書で「大兵が来れば防ぎきれない、一身は惜しくないが三千兵が憂うべきだ、十二関・建春・万寧宮すら保てない」と述べたが朝廷はこの言葉を悪み有司に按問させ十五罪を数えて田里に還らせた。翌年再び中都に召され軍事に参与させられ、左諫議大夫張行信は上書「呼沙呼は専ら私意を逞しくし公道に循わず、省部を蔑して強梁を示し近臣に媚びて称誉を求め、法を骫げて事を行い枉げて平民を害し、行院山西では師律なく戦わずに先んじて退き、擅に官物を取り県令を杖殺し、媯川屯駐で内地への移転を乞うなど、その謀畧の程度は明らかだ、前非を改めさせ後効を収めさせようとしても難しいのではないか、才は誠に取るべきものだが微賎な者でも用いるべき、なぜ老旧だけが功を立てられよう、一将の用が安危に関わる、朝廷は察するべきで天下の幸いだ」と述べた。丞相図克坦鎰も不可とし参知政事&KR1723;も姦悪を奏し一旦止められたが、執中は近倖と結ぶことに善く五月留守の半俸を給し軍事に参与することが詔された。張行信は再び諫めたが上は結局執中を用いるべきと考え金牌を賜り権右副元帥として武衛軍五千を中都城北に屯させた。執中はその党の経歴宮文繡局直長完顔酬努・提控宿直将軍富察禄錦・武衛軍鈐轄烏庫哩道拉と乱を謀った。当時大元兵が近く上は奉職を軍中に遣わして執中に馳猟ばかりで軍事を顧みないことを咎めたが執中は鷂を飼っている最中に怒って鷂を投げ殺し、妄りに知大興府図克坦南平とその子刑部侍郎駙馬都尉黙哷が謀反していると称して詔を受け討伐すると称した。南平の姻家福海が別に兵を城北に屯していたが好語で招かせ執行させた。八月二十五日未の五更、執中は軍を三つに分け一軍で自ら章義門から入り一軍を玄通門から入らせた。城中から兵が出るのを恐れ一騎を東華門に馳せ「大軍が至り北関では既に接戦した」と大呼させ、さらに一騎を再遣し同様に告げさせた。図克坦金寿に知大興府図克坦南平を召させたが南平は知らずに広陽門西の富義坊で馬上から執中に会い、執中は自ら槍で刺し落馬させ金寿がこれを斫殺した。烏庫哩道拉に黙哷を召させ殺させた。符宝祗候珊延・護衛十人長完顔実古納は乱を聞き急いで漢軍五百人を召集し執中と戦うも勝てず皆死んだ。執中は東華門に至り呼ぶも親軍百戸棟爾五十戸富察禄錦は応じず、世襲明安三品職事官を約束しても応じず、都点検図克坦威赫(図克坦鎬)を呼び、威赫は城を縋って出て執中に会った。執中は薪を積んで東華門を焼き梯を立てて城に登った。護衛実喇竒爾・親軍春山が共に鏁を叩き開いて執中を入れさせた。執中は宮に入り党を宿衛に据え自称「監国都元帥」として大興府に居り兵を陳して自衛、急ぎ都転運使孫椿年を召し銀幣で金寿・道拉及び軍官軍士を賞し、大興府の輿隷はこの夜声妓を召し親党と会飲した。翌日兵で上に逼り衛邸に移らせ、左丞完顔綱を軍中に誘い出して殺した。執中の意図は不可測であったが丞相図克坦鎰は執中に宣宗擁立を勧めそれに従った。当時荘献太子は中都におり執中は皇太子儀仗で荘献を東宮に迎え入れた。符宝郎図克坦福寿に符宝を大興府の露階上に陳させ盗んで御宝を用い制を出し完顔酬努を徳州防禦使、烏庫哩道拉を順天軍節度使、富察禄錦を横海軍節度使、図克坦金寿を永定軍節度使に除したが外官であっても皆左右に留めた。他に数十人が同時に拝された(東華門を守り従乱しなかったもう一人の富察禄錦がいた)。礼部令史張好禮に監国元帥印を鋳させようとしたが好禮は「古来異姓が監国した例はない」と述べ止めさせた。奉御完顔和色哩ら三人と護衛布希班第・完顔酬努ら十人を彰徳に遣わし宣宗を迎え、宦者李思忠に衛邸で衛紹王を弑させた。沿辺諸軍を全て中都に集め、平州騎兵は薊州に屯して自重を図り辺戍は皆守られなくなった。九月甲辰宣宗即位、執中は太師尚書令都元帥監修国史に拝され澤王に封ぜられ中都路和囉噶図世襲明安を授かり、弟の同知河南府特黙は都点検兼侍衛親軍都指揮使に、子の準は濮王傅兵部侍郎、都点検図克坦威赫は御史中丞に、烏庫哩道拉は遥授知真定府事、図克坦金寿は遥授知東平府事、富察禄錦は遥授知平陽府事、完顔酬努は同知河中府事権宿直将軍とされた。詔で烏庫哩誼の居第を執中に賜り儀鸞局が供張を給し妻の王氏には紫と銀鐸車を賜った。戊申執中が朝に侍すると宣宗は座を賜り、執中は着座して辞さなかった。まもなく執中は衞紹王を庶人に降すことを請い再度上奏、詔で百官に朝堂で議させたが太子少傅鄂屯忠孝・侍読学士富察思忠が執中の議に附き衆は相視て言えぬ中、文学田廷芳が奮然と「先朝に失徳はない、尊号は礼として削るべきでない」と述べ従う者が現れた。礼部張敬甫、諫議張信甫、戸部武文伯、龎才卿、舒穆嚕晉卿ら二十四人。宣宗は「例えば道を問うのに百人が『東行だ』と言い十人が『西行だ』と言えば、行く者は東に行くべきか西に行くべきか、百人十人だけで是非は決めるべきでない」と述べ、後に「朕はゆっくり考えよう」と数日後に東海郡侯への降号を詔した。大元の游騎が高橋に至ったと宰臣が奏し宣宗が執中に問うと執中は「計画は既に定まった」と答えたが、後に宰執に「私は尚書令として先に議に与らせるべきなのに突然奏聞するとは」と譲責したが宰執は謝るのみであった。近侍局を提点する慶善努・副使惟弼・奉御惟康が執中の除去を請ったが、宣宗は援立の功に念じて隠忍し許さなかった。元帥右監軍珠格髙琪が屡々戦に不利で執中は「今日出兵して功なければ軍法に従わせる」と戒めたところ髙琪は出撃して再び敗れ免れられないことを自覚し慶善努らの謀を頗る聞き知り、十月辛亥髙琪はついに率いる乣軍で中都に入り執中の第を囲んだ。執中は変を聞き彎弓で外へ矢を放ったが勝てず後垣を登って逃げようとしたが衣が引っかかり墜落して股を傷つけ軍士がその場で斬った。髙琪は執中の首を持って闕に詣で待罪したが宣宗はこれを赦し右副元帥に任じた。執中の党が街路で「乣軍が反した、殺せば賞がある」と呼びかけたため市人はこれに従い乣軍で死んだ者が甚だ多く一軍は恟恟としたため宣宗は近侍を遣わし撫諭させ有司に賻贈を量加させ翌日衆はようやく安んじた。翌日特黙は奉寧軍節度使、烏庫哩道拉は真授知済南府事、図克坦金寿は真授知帰徳府事、富察禄錦は真授知平陽府事に任じられた。甲寅左諌議大夫張行信は封事を上げ「春秋の法では国君が立つのに道によらず、もしかつて諸侯と盟会したのであれば列して諸侯とされる、東海(衞紹王)は在位六年に及ぶ、その臣たる者が誰が敢えて干渉できようか。呼沙呼は兵を握って城に入り躬ら弑逆を行った、この時ただ珊延実古納だけが衆を率いて赴援し戦死に至った、その忠を論ずれば朝で食禄する者は皆愧じるべきだ。陛下は初めて万機に親臨し海内は化を望んでいる、二人の子孫を褒顕すれば貞魂を少しでも慰め天下の義気を激するに足りよう。宋の徐羨之・傅亮・謝晦は営陽王を弑し文帝を立てたが文帝はこれを誅した、江陵奉迎の誠のみを免じ妻子を許した例がある。呼沙呼は国の大賊で世が共に悪む者、既に死んでも罪名は未だ正されていない、その過悪を暴いて中外に宣布し除名削爵し縁坐でその家を処すべきだ、そうしてこそ快とすべきだ。陛下がもし援立の労に忍びぬなら元嘉の故事に倣うのもまた懲戒を示すに足る」と述べた。宣宗はこれにより詔で執中の過悪を暴き官爵を削り、珊延実古納には恩を加贈しその子慶善努・惟弼・惟康は皆遷賞され近侍局は以後用事するようになった。

史論――弑逆の連鎖と天下の乱

金の九主で弑された者は三人、その逆謀に加わった者は十人。熙宗の弑には大興国が一人のみで、世宗はその罪を声して思陵の側で磔にした。図克坦貞は誅されたがその罪状を暴くことはなく、後に戚畹として官を追復贈られた。他の秉徳・唐古辯ら六人は皆他の罪で誅された。海陵の弑ではその首悪は完顔元宜だが、令終(善終)を得た。衞紹王の弑では呼沙呼は司敗の誅を受けずに髙琪の手に死んだ。古にいう「弑君の賊は人がこれを討つべし」というのは公上に請いて討を致すこと、孔子が陳恒討伐を請うたようなものだが、髙琪の擅殺を功とするのは道理に合わない。金の政刑がこれほど乱れていては、国が亡びずに済むはずがない。