上黨公として太原恢復を図る
- 張開、完顔の姓を賜った。景州の人。至寧末、河北で兵が起こると開は郷兵を団結して固守し功を積んで遥授同知青州防禦事兼同知観州事となった。貞祐4年(1216年)、開は所部を率いて河間府及び滄・献二州13県を再び取った。開には宣府司があり空名宣勅2百道を留めて付され、権に従って署置し任じられた所に赴き旧の宮闕を復した州県には空名宣勅で補うことを奏乞した。詔で同知観州軍州事に遷り、開は再び青州を復し塩を輸して糧に易えることを乞い、詔で糧を与えた。観州刺史に遷り本州経略使を権知した。ここに至って初めて完顔の姓を賜った。
- 開は便宜を許すことを奏乞し、淇門・安陽・黎陽が皆堰を作って水を塞ぎ河運が通じないことを論じ、水道を開発することを乞うたが報われなかった。観州の糧が尽き、この歳秋、軍を輝州に徙し麦種3千石・驢騾3百あるいは寶券2百貫を乞ったが、戸部は与えなかった。御史台は「開は観州から転戦してここに来ており久しく労績があった、その軍に耕種させて自給させたいところを、有司は小費を計算して拒み与えなかった。断は宸衷(皇帝の心)から出させ麦種を与えることを乞う、もし牛がなければ寶券を給すべき」と奏し、制可された。この歳、潼関が守れなくなり南京の衛のため召し入れられた。興定元年(1217年)、遥授澤州刺史。2年(1218年)、遥授同知彰徳府兼総領提控。3年(1219年)、潞州招撫使を充てられた。林州元帥府が潞人を徙して林州を実にしたが、すでに復すると還らせ、開は晋安元帥府に隷することあるいは林州と並びに元帥府を置きそれぞれ自ら治めることを乞うた。
- 10月、開は権昭義軍節度使遥授孟州防禦使権元帥左都監行元帥府事とし、郭文振と共に太原を再び取った。4年(1220年)、上黨公に封じられ、澤・潞・沁州がこれに隷した。5年(1221年)、詔で再び渉県を崇州とした、これは開の請に従ったものである。元光元年(1222年)、再び高平県及び澤州を取った。2年(1223年)、壺関で大戦して功があったが、まもなく潞州が危急となり、開は「公府を封建したのは屏翰(藩屏)を固めるためだ、今、胡天作は平陽を出、郭文振は南徙し、河東公府は独り臣と史詠のみとなった、澤・沁二州を昇格させて節鎮とし守禦を重んじることを乞う」と奏し、詔で澤を忠昌軍、沁を義勝軍とした。林州の&KR3fef;尖寨の衆が乱を作し招撫使の康塘を逐い杜仙を招撫使に推した際、開は盧芝瑞を副としてその衆を代領することを請い、また「近頃聞くところでは郭文振が懐孟で食を求め史詠が解州に徙り高倫が葛伯寨に遷り各々自ら保守するのみで民は何を頼りにすべきか。臣は孤軍を領し内に儲蓄なく外に応援もない、臣は失守の罪を避けないが、朝廷の憂いを益々重くすることを恐れる」と述べた。
- 正大間、潞州が守れなくなり開は南京に居り部曲は離散し名は旧公であっても匹夫と異ならなくなった。天興初、起復して劉益と共に西面元帥となり安平都尉紀綱の軍5千を領して衛州を攻めたが白公廟で敗績した。この時、哀宗は帰徳に走り、開は劉益と共に潰兵を収めて衛から従うことを謀ったが果たせず、遂に承裔と共に西走したが皆民家に殺された。当初、公府を置いた際、開と恒山公の武仙が最も強盛であったが、後に馬武山に兵を駐めた際、人を遣わして間道で糧2万石を請うたが、用事者はこれを難とし2千石のみを給した。公府の将佐は報を得ても皆敢えて開に言わなかった。開はこれを聞き酒を置いて諸将を召し「朝廷が私を待つのは特に厚い、今日は諸君と一緒に一酔しよう」と述べた。諸将がその故を問うと「先に糧が尽きたことを言い2万石を祈ったが2千石を得た、これは吾が君相が武仙輩のように私を待遇していないことだ」と述べた。この時、郭文振は開の西北にあり兵の衝に当たり、民は貧しく地は瘠せていた。開はまた命を奉じず糧をもって文振の軍を賑わさなかった、文振は窮竄し開の勢いはますます孤立し敗に至った。