金史卷一百十八 列傳第五十六 胡天作

平陽経営から悲劇の最期

  • 胡天作、字は景山、管州の人。初め郷兵をもって本州を守禦し功を積んで少中大夫管州刺史となった。興定2年(1218年)、遥授同知太原府事とし刺史はもとの通り。この歳、平陽が失守し、同知平陽府事に改まった。興定3年(1219年)、再び平陽を取った。天作は「汾・潞は皆帥府が置かれ、平陽は大鎮であるのに今稍完復され所管の州県は10万戸を下らない、復業する者が相継いで絶えないのは汾・潞をはるかに過ぎている、一体に帥府を置くべきである」と述べた。この時、晋安・嵐州には皆帥府があり、そこで天作を便宜招撫使権元帥左都監とした。4年(1220年)、平陽公に封じられ、平陽・晋安府・隰・吉州がこれに隷した。天作は晋安府の翼城県を翼州とし垣曲・絳県をこれに隷させることを請い、平水県を汾河の西に置くことを請い、朝廷は皆これに従った。当初、軒成は本来程琢の麾下に隷していたが、琢が死ぬと成は衆を率いて隰州を保った、これによって同知隰州軍州事兼提控軍馬とした。成は器甲を増繕し亡命を招納し頗る他志があった。この時、隰州はまさに用兵中で未だ制することができなかった。天作は要害の州県を増置してその勢いを分けることを請い、隰州の境の蒲県は最もその衝に当たっているので州に改めるべきであり、隰州の仵城鎮は県に改めて官を選んで守備させるべきと述べ、詔で蒲県を蒲州に昇格させ大寧県をこれに隷させ、仵城鎮を仵城県とした。
  • 天作が平陽を守ること凡そ4年、しばしば功があり、詔でその子の定格を録して奉職とした。元光元年(1222年)10月、青龍堡が危急となった際、詔で瓜爾佳実倫を遣わして張開・郭文振の兵と会し救わせたが、弾平寨の東30里に次って進めなかった。知府事の珠格・和索哩、総領の提控王和は各々兵をもって帰順した。臨城でその妻子を索めた際、兵民は皆潰え天作を執らえた。天作はすでに帰順していたが、詔で珠・和索哩の子を南京に送り、天作の子の定格には承応を以前通りに命じた。天作はすでに大元の官爵を受け虎符を佩び懐孟の民を招撫していると聞き、定格はこれを聞くとすぐに自ら首を吊って死んだ。信武将軍同知睢州軍州事を贈られた。詔で張開・郭文振に天作を招かせた。天作は済源に至り脱走しようとし、先に人を遣わして表を南京に奏したが、大元の大将はその反覆を悪んで遂にこれを誅した。
  • 天作の死後、宣宗は同知平陽府事の史詠に権行平陽公府事とし、後に平陽公に封じた。平陽が初めて破れた際、詠の父の詐と母の蕭氏は窟室に隠れていたが、これを索し出され詐に詐って招降を勧めさせられたが、詐は遂に自縊死した。蕭氏は逃げ帰り、詠の妻の梗氏もまた自死した。宣宗は詐に栄禄大夫京兆郡公を贈り諡は成忠、蕭氏には京兆郡太夫人を封じ「歸義」の号を賜り、梗氏には京兆郡夫人を贈り諡は義烈とした。まもなく詠は内徙(内地への移転)を乞い、その軍を解州・河中府に徙した。