莒州から東莒公への道
- 燕寧、初め莒州提控として天勝寨を守り、益都の田琢、東平の蒙古綱と相依り輔車の勢いをなした。山東は残破しているとはいえなお三人を重んじて頼りにしていた。紅襖賊の五公喜が注子堌に拠り衆を率いて沂州を襲拠すると、寧はこれを撃走し遂に沂州を復した(田琢伝に詳しい)。寧はしばしば紅襖賊を破り胡七・胡八を招降しこれを腹心として引き入れ、賊中でこれを聞いて降ろうとする者が多かった。累官して遥授同知安化軍節度使事山東安撫副使となった。興定4年(1220年)、東莒公に封じられ、益都府路は皆これに隷した。5年(1221年)、蒙古綱・王庭玉と共に東平を保全し功により金紫栄禄大夫に遷った。天勝に還り戦死した。
- 蒙古綱は寧が忠孝を尽くして克てるほどでありながら位は上公にありながらも祖考には未だ封爵がなく、身が没した後、老稚に衣食するものがないと奏し、異恩を降してこれで節義の士を励ますことを乞うた。詔で故祖の臯に銀青栄禄大夫を贈り、祖母の張氏には範陽郡夫人、父の希遷には金紫栄禄大夫、母の彭氏・継母の許氏・妻の霍氏には皆範陽郡夫人とし、族属52人には皆廩給させた。益都の張林が田琢を逐ってから、続いて寧が死んだことにより蒙古綱の勢いは孤立し軍を邳州に徙した。山東はもはや守れなくなった。
史論
- 賛に曰く、苗道潤が死ぬとその地を中分し、靖安民はその西の半分を有した。中分してから東の分は後に張甫がこれを有したが北境はなくなった。おおよそ九公封建は宣宗実録に載る所はこの通りである。他の書に「滄海公張進・河間公伊喇重格・易水公張進・晋陽公郭棟」と載るものがあるが、これは必ず正大間に継封したもの、史詠が胡天作の跡を継いだようなものであろうが、詳らかにはできない。