金史卷一百十八 列傳第五十六 郭文振

晋陽経営と行省常設の建言

  • 郭文振、字は拯之、太原の人。承安2年(1197年)進士。累官して遼州刺史となった。貞祐4年(1216年)、昭義節度使の必喇阿嚕岱が遼州を節鎮に昇格することを請い、廷議は遼州の城郭・人戸が節鎮に相応しくないが文振には功があり当然遷すべきとし、すぐに本官のまま宣差従宜都提控とした。興定元年(1217年)、詔で文振に苗道潤の中都恢復を接応させたが、道潤と賈仝が相攻めたことに会い止まった。文振は遼州を治めて深く衆心を得た。興定3年(1219年)、遥授中都副留守権元帥左都監行河東北路元帥府事に遷り、刺史・従宜はもとの通り。文振は太原の東山2百余村を招降し老幼を山寨に遷し壮士7千を得てこれを分駐させ営柵とし秋収を防護させた。文振は「もし秋高(秋の高い時期)に兵がなければ直に太原を取り河東を復するとよい」と奏し、優詔でこれを許した。10月、権元帥右都監行元帥府事とし張開と合わせて堅台州の兵を集めて太原を再び取った。4年(1220年)、詔で楽平県を昇格させて臯州とし、寿陽県の西張寨を晋州とした、これは文振の請に従ったものである。
  • 文振は上疏して「揚子雲に『御が道を得れば天下の徂詐(すべての詐り)は皆なくなり、御が道を失えば天下の狙詐(詐り)は皆起こる』とある。天下を有する者は御する所を審らかにするだけである。河朔は用兵より後、郡邑は蕭然として並びに官長がなく、武夫悍卒がこの機に乗じて起こり得意になり、僭越して名位を称し瓜分角競して互いに侵攘し合っている、たとえ内除(朝廷任命)の官があってもその職を領することができず、その所為の不法は言い尽くせない。帥府に擅に便宜を請い妄りに自ら誇張してその権を尊大にさせることを乞う。その包蔵の心はうかがい知れる。朝廷はこれに因ってこれを撫し権を假し伝授するに至り、各路帥府と力が対等で勢いが均しく相統属しない状況になった。陝西行省がこれを総べて節制するにも相去ることは遼遠であり道路は梗塞し卒に聞き知ることは難しい、故に飛揚跋扈して畏憚するところがない、隣道は相望んでも誰何する者がない。平陽城が破れて以来、河北には行省が置かれず、朝廷の信臣も往復して声教を布揚することがなく、ただ伊喇に報を行かせるのみである。所司はこれを酒食で労い貨財で悦ばせその声誉を借りて共に朝廷を欺き、姦倖はすでに行われて遂に驕恣を至らせる、変故の生ずることに至らないことがあろうか。これは臣が夙夜に痛心してこれを憂懼する所以である。公廉の官を分遣して遍く訪察させ、所在の利害の実を知るべきである。伏して見るに澤・潞等処はなお芻糧が広く人民もなお多く地は険阻が多い、重臣を選んで再び行省を直接置き皆節制を聴かせ上下相い維(つな)げば臂指のように使うことができ、国勢は日に重くなり姦悪も萌さないだろう」と述べた。
  • この時、澤・潞にはすでに詔で張開に規画させ、文振の言をすべては用いられなかったが、ただ南京兵馬使の珠嘉賽音に帥府を懐孟で行わせたのみであった。この歳、晋陽公に封じられ、河東北路は皆これに隷した。文振は「孟州は毎に豪猾不逞の人に州事を摂させ、朝廷は更代を重んじてそれを主らせている。去年、伯特和が刺史を摂したが提控の伯特安がこれを殺しその職を奪った。河東行省は陳景璠に安に代えさせようとしたが、安は内心不平を抱きこれによって景璠を死罪と誣告した。朝廷は未だ按問しないうちに安は輒くこれを逐い、臣の節制を受けることを恥じて衆に『道路が稍通じれば当然恒山公の節制に隷するべきだ』と宣言している。今、真定はすでに守れなくなっているのに、安はなお向慕することがやまない。臣が諸郡から兵を徴すると、安は輒く詭辞(言い逃れ)をして遣わさない、臣がもし興師すればこれは自ら一敵を生むことになり国家の便ではない。安に娘がいると聞き、臣は輒く律令に違って姪孫の述に娶らせようとし、安は遂に許した、臣は安と婚を結ぼうとしたわけではなく公家のためにこれをなしたのみである。結親して以来、安は頗る循率して王事に従うようになった、法では娶るべきでないのに輒く娶ったことを、あえてこれを罪として請う」と奏し、宣宗はその意を嘉して近臣を遣わして慰諭した。文振は再び「武仙が統べる境土は甚だ大きい、林州元帥府と共にこれを招撫したいが、本土の州県官を改めて選び直しその職任を重んじ共に安集を行うことを乞う、還定することができるだろう」と奏し、宣宗はその策を用いた。
  • 5年(1221年)、文振は「臣が統べる嵐・管・隩・石・寧化・保徳の諸州は境土が闊遠で利害を周知できず軍国の大計を誤ることを恐れる。伏して見るに葭州刺史の瓜爾佳芬徹は智勇が人に過ぎ深く河東の事勢を悉く知っている、行元帥府事あるいは本路兵馬都総管として臣と分治させることを乞う」と奏し、詔で文振に可なる者を就いて処せさせ便地とし、なお文振の節制を受けさせた。上黨公の張開が厚賞をもって文振の将士を誘い頗る亡帰する者があった。詔で遼・潞の粟を分けて太原の饑民を賑わせようとしたが張開は与えず、文振がこの事を奏すると詔で使者を遣わして慰諭させた。文振は再び前の請を申し、葭州刺史の瓜爾佳芬徹に嵐・管以西の諸州を分治させることを求め、制可された。なお防秋の後、再びその宜を度らせた。文振は上党の粟を分けて太原に贍わせることを請い、詔で文振に張開と計度させた。まもなく詔で石州を晋陽公府に隷させた。
  • 元光元年(1222年)、林州行元帥府の惟良が罪を得て召還されると、文振は「近ごろ惟良が召還されたと聞いた、臣は竊かにこれを不可と思う。惟良は林州にあること5歳、政は寛厚を尚び大いに民心を得ている、今召しに応じると軍民が路を遮って泣きながら留めた」と奏した。まもなく&KR3fef;尖の衆が乱を作し招撫使の康瑭を逐い、惟良を林州に還すことを乞うたが許されなかった。文振は上書して前平章政事の胥鼎を遣わして河北を行省させ諸公府・帥府を並びにその節制を聴かせ、詔で百姓に遺黎(残された民)を忘れない意を諭させ、然る後に河南・陝西の精鋭で力を併せて恢復することを乞ったが報われなかった。文振は再び「河朔の百姓は引頸して南を望んでいる、臣はしばしば樞府に請うたが、ただ府兵を会合させることのみを言うだけだ。公府は名は分封であっても力は実に単弱、しかも相統摂できず、所在で兵を被っても朝廷はすぐに兵を遣わして河北を復さない、人心はまさに河朔を挙げて棄てられたと思うだろう、甚だ計に非ず」と奏した。文振は大抵、胥鼎を起用して行省とし河北を定めることを欲していたが、朝廷はこれを用いることができなかった。2年(1223年)、詔で文振は史詠に応援して河東を復させた。この歳、遼州は守れなくなり、その軍を孟州に徙し、部将の郝安らを文振の副として沿山の諸寨を護らせた。文振らの公府について詔で許さなかった。まもなく文振の部将、汾州招撫使の王遇と孟州防禦使の納喇蒙古勒が相能わなくなり再び衛州に徙り、しかしまた軍として成立できず、正大間に至って衛に寓するのみであった。