西路経略と山寨陥落の忠死
- 靖安民、徳興府永興県の人。貞祐初、義軍に充てられ穆昆・千戸・総領・万戸・都統を歴任し、皆苗道潤の麾下に隷した。功により遥授定安県令、涿州刺史に遷り遥授順天軍節度使とし提控を充てた。興定元年(1217年)、遥授安武軍節度使、興定2年(1218年)、知徳興府事中都路総領招撫使に遷った。この歳、苗道潤が死に、安民が代わってその衆を領した。行省は承制で涿州刺史の李竒嚕を権中都路経略使とした。3年(1219年)、詔で竒嚕を雄・覇以東の中都東路経略使とし、易州以西は安民を中都西路経略使とし、西山義軍の屯塁・諸招撫は皆これに隷させた。4年(1220年)、遥授知徳興府事権元帥左監軍行中都西路元帥府事とした。
- 3月、安民は上書して「苗道潤が撫定した州県は50余城、その功は甚だ大であった。西京路経略使の劉鐸はその功を嫉んで賈瑀・李琛を反間し道潤と協わせず転じて相攻伐させ、ついに陰謀で道潤を殺すに至った。鐸は所部の劉智元らに鎮撫の孫資・孫招撫の楊徳勝の家人20余口を掠奪させ山寨に錮させている、もし鐸が常にここに居れば敗事を招くことを恐れる」と述べた。劉鐸もまた副使の劉璋を遣わし南京に詣で自訴し、且つ「安民は人の飛狐の境を侵し封拜を冒濫し、人心を誘惑して総領の馮通らに銀粟を輸させ、飛狐総領の王彦暉が弾圧の劉智元・杜貴を偏裨にしようとしたことに彦暉らが拒んだところ、輒く貴を殺し智元を杖し、ついに彦暉を駆逐して去った」と言い、また「経略の職は卑くこれによって従宜の李栢山らが日々見害を謀っている、罷めることを許されたい」と乞うた。
- 廷議は「劉鐸は本来招誘逋亡を行う任であり、今、安民と互いに論列し合って争端を起こしている、苗道潤が死に安民は実にその衆を代領している、彦暉らの軍は本来道潤に隷していたのだから安民の節制を聴くべきだ」とし、鐸を召還した。まもなく易水公に封じられ、涿・易・安粛・保州・君氏川・季鹿三・保河北・江礬山寨・青白口・朝天寨・水谷・懽谷・東安寨がこれに隷した。10月、安民は出兵して礬山に至り再び檐車寨を取った。大元兵が安民の居所の山寨を囲むと、守寨提控の馬豹らは安民の妻子及び老弱をもって出降した。安民の軍中はこれを聞いて駭乱し衆議は降って妻子を保とうとしたが、安民及び経歴官の郝端はこれに従わず遂に害に遇った。詔で金紫栄禄大夫を贈った。