中都東路の経営
- 張甫、完顔の姓を賜った。当初、大元に帰順した際、涿州刺史の李竒嚕がこれを招いた。興定元年(1217年)正月、甫は張進と共に来降し、東平行省の蒙古綱は承制で甫を中都路経略使、進を経略副使に除した。2年(1218年)、苗道潤が死に、河北行省の侯摯は承制で李竒嚕を道潤の中都路経略使に代え、甫と張柔をその副とした。まもなく苗道潤の衆は靖安民が道潤に代わることを請うた。この時、張柔と安民は実に道潤の部衆を分掌しており、朝廷は竒嚕を中都東路経略使とし、雄・覇より東は皆これに隷させた。甫は進んで永定軍節度使の賈仝と協らず兵をもって相攻め仝の地を奪い据し仝の馬を取って経略使の李竒嚕に遺わせた。竒嚕はこれを受けた。
- 朝廷は竒嚕が州府を和輯できず離反があると怪しみ、竒嚕を召して別に官職を与え東平の蒙古綱に甫と賈仝を講睦させることを詔した。綱は同知安武軍の王郁、博野令の高常住を遣わしてこれを平定させようとしたが、輒く竒嚕を留めて遣わさず、これによって「張甫は本来竒嚕の招降を受けており情意は厚善である、今、郁を遣わすなら先に竒嚕とこれをどう平定すべきか議してからにすべき、況や甫らは礼義を識らない人であり、竒嚕が就召されれば皆自ら疑い他変を生じることを恐れる、故に専擅の罪を避けなかった」と奏した。詔で綱の奏に従った。まもなく賈仝は再び兵をもって甫の部民を捕らえ甫の参議官の邢&KR3079;を殺し、甫は兵を率いてこれを攻め賈仝は敗走し遂に自縊死した。甫は符印を請いその部衆を安輯し、詔でこれを与えた。まもなく李竒嚕が大元に帰順すると甫は中都東路経略使遥授同知彰徳府事権元帥右都監となった。
- 3年(1219年)、張進は中都南路経略使となった。甫は「真定は兵の衝である、重臣を遣わして恒山公の武仙と力を併せて守らせてほしい」と奏したが報われなかった。真定が守れなくなると甫は再び「権元帥右都監の柴茂が冀州の水寨を保っているが孤立して援がない、もし兵を益さなければ臣の知るところではない」と奏した。4年(1220年)、甫は高陽公に封じられ、雄・莫・覇州、高陽・信安・文安・大城・保定・静海・寳坻・武清・安次県がこれに隷した。元光元年(1222年)、伊喇重嘉努が河間を守れなくなり、甫はこれに信安を居させた。この歳、功により金紫栄禄大夫に進み、初めて完顔の姓を賜った。2年(1223年)2月、張進もまた元帥左監軍に遷り完顔の姓を賜った。