金史卷一百十七 列傳第五十五 國用安

変転を重ねた叛徒の末路

  • 国用安、先の名は安用、本名は咬兒、淄州の人。紅襖賊の楊安兒・李全の余党である。かつて大元に帰順して都元帥行山東路尚書省事となっていた。天興元年(1232年)6月、徐州の埽兵総領の王祐、義勝軍都統の豊紳、総領の張興らが夜に草場を焼いて乱を作し元帥の図克坦伊都を逐うと、安用は兵を率いて徐州に入り張興及びその党10余人を斬り、豊紳を元帥兼節度使として徐州を主らせた。宿州鎮防軍千戸の高拉格は面面総帥の劉安国と結び徐州総帥の王徳全に構謀し、宿帥の赫舍哩阿古を殺しその州を海州に帰した。邳州従宜の烏凌阿某もまた州を杜政に譲り海州に送款した。まもなく皆安用に帰した。
  • 北の大将のアルクチュルは安用が徐・宿・邳を拠すると聞いて大いに怒り「三州は我がまさに攻取すべきものだ、安用は何者かがすぐに降を受けるとは」と述べ、信安の張進らに兵を率いて徐に入らせ安用を図らせその軍を奪おうとした。安用は懼れて徳全に謀り、張進及び海州元帥の田福らを刼殺すること数百人、楊妙真とは絶交し還って邳州に帰した。山東の諸将及び徐宿邳の主帥が会して馬を刑して盟を結び金朝に帰することを誓った。既に盟うと諸将は皆散じて去り、安用は帰するところがなくなり遂に徳全・安国と共に従宜重僧努に託して自ら朝廷に通じた。重僧努は人を遣わして奏を上げ、「安用は数州の反正の功が甚だ大きく、しかもその兵力は強盛で材略は称すべき、国家が果たして倚用しようとするなら極品重権でなければその許国の心を堅くするに足りない」と述べたが報われなかった。
  • 安用は兵1万を率いて海州を攻めたが至る前に衆は稍々散っていった。安国はこれによって安用に赤心(真心)で国に帰るべきと勧め、安用もまた自ら反復して計を失ったことを知り、事はすでにどうしようもなかった。そこで再び金朝の衣冠に復した。妙真はその己に反したことを怒りまた図られることを懼れ、悉く安用の家を屠り益都に走った。安用は遂に兵を選んで将を分け必ず妙真を得ようと期した。これより淮海の上には安寧な歳がなくなった。まもなく朝廷は近侍局直長の因世英・都事の高天祐を遣わし手詔を持たせ邳に至らせ、安用を開府儀同三司平章政事兼都元帥京東山東等路行尚書省事とし特に兖王に封じ「英烈戡難保節忠臣」と号を賜り姓を完顔と賜って属籍に附し名を用安と改めさせた。金鍍銀印・駝紐金印・金虎符・世襲千戸・宣命勅様牌様・御画体宣・空頭河朔山東赦文・便宜従事を賜り、且つ彭王妃の誥をもって用安に妙真を招くことを委ねた。
  • 用安は初め使者が至ったと聞くとなお猶予して決せず、総領の楊懋に使者を迎えて州廨に入れ堅く留まらせ、来意を問うた。世英は「封建」の事をもって対し、意は頗る順であったが、諸帥の王・杜輩は皆聴かないことを望み使者を殺すよう宣言していた。翌日、用安はすぐに出て使者に見え跪いて揖すること等夷(同等の身分の者)のようにし、坐が定まって世英に語り「私はかつて大兵に従って汴を攻めた際、かつて開陽門の下で侯摯と内外夾撃を議したことがある、この時、大兵は病死する者が多く十七頭項(軍の分隊)は皆京城にあった、もし私の計に従って軍を出していれば中興は久しかっただろう、朝廷にはついに一人も敢えて決する者がいなかった、今日悔いても何の及びがあろうか」と語り終わって立った。まもなく人を選んで朝廷の賜物を取り遍く観てその顔色に喜色を見せた。再び使者と私議して朝礼をもってこれを受けないことを欲したが、世英らは不可とし、すぐに宴を設けて議の通りに拝受した。主事の常謹らを使者に随わせて表を奉じ入謝させた。
  • 上は再び世英・天祐を遣わして鉄券一、虎符六、龍文衣一、玉魚帯一、弓矢二を賜り、その父母妻に誥命及び郡王宣・世襲宣・大信牌・玉兎鶻帯を各十封贈し、同盟に賜えるものは賜わせた。使者が邳に至ると用安は礼をもって迎え受け、始めて入援の意を持った。まもなく上がまさに蔡州に遷ろうとすると聞き、すぐに人を遣わして蝋書をもって「遷蔡には六つの不可がある」と言った。おおよそ、「帰徳は還城(周りが囲まれた城)であり皆水卒(水路の兵)で攻撃しにくいのに、蔡にはこの険がない、これが一。帰徳は糧儲に乏しいとはいえ魚芡(魚・菱の実)で取足せる、蔡がもし囲みを受ければ廩食に限りがある、これが二。大兵が帰徳を去る所以は我を畏れているからではなく、これを縦って出させその後を躡み、その難きを舎てその易きに就いて攻めるためだ、これが三。蔡は宋境まで百里に満たず、万一敵に資すれば兵糧の禍は解けない、これが四。帰徳が保てなくても水道を東行すればなお去ることができるが、蔡がもし守れなければどこに去るというのか、これが五。時は方に暑雨で千里泥淖である、聖体は豊沢(肥満)で鞍馬に便でなく、倉卒に敵に遇えば臣子の敢えて言うところではない、これが六」と述べた。「しかしながら陛下が必ず帰徳を去りたいならば山東に権幸するに如くはない、山東は富庶で天下に甲たり、臣はほぼその地を有している、東は沂海に連なり西は徐邳に接し南は旰楚を扼し北は淄斉を控える、もし鑾輿(皇帝の車)が少しでも停まれば、臣は威霊を仰ぎ頼り河朔の地は檄を伝えて平定できる、ただ陛下は審察されよ」と述べた。上はその言を宰臣に示し、宰臣は「用安は反復し本来匡輔の志なし、これは必ず参議の張介らが議したものであろう」と奏し、すでに蔡に遷ることを議した後であったため、議は寝された。
  • 当初、世英らが徐を過ぎた際、王徳全・劉安国はこれを説いて「朝廷の恩命はどうして用安から出るべきなのか、郡王の宣はわれら二人こそ最も得るべきものだ、留めてほしい」と言った。世英はすぐに郡王の宣・世襲の宣・玉帯を各二つ留めた。これにより用安と隙が生じ、またその図られることを恐れて皆その節制を聴かなかった。十郡王とは、李明徳・豊紳・張瑀・張友・卓翼・康琮・杜政・呉歪頭・王徳全・劉安国である。用安は必ず山東を取ろうとし、しばしば徐宿の兵を徴したが、ただ勤王をもって辞とするのみで二帥はこれに応じなかった。用安は怒り杜政らに兵3千で糧を取ることを名目として徐宿を襲わせ、既に城に入ると徳全はこれを気づき、すぐに杜政・豊紳を留めて遣わさなかった。用安はますます怒って徳全・安国は必ず謀があると考え、桃園帥の呉某ら8、9人を執らえて下獄し鞫問した。二帥は温特赫張格を遣わして杜政・豊紳が徐州を襲取しようとしていることを用安に白(申し上げ)したが聴かず、呉帥・張格輩9人を駆って併斬した。張格は死に将にとして大呼して「国咬兒よ、お前は尺寸の功もなく国家の大封爵を受けたのに何を私に負って杜政らと変乱に従い、また無罪の人を殺すのか、今死ぬとしても当然お前と地下で辨(弁明)しよう」と述べた。
  • ちょうど上は臧国昌を遣わして密詔をもって東方の兵を徴した。故に用安は朝命を仮借し入援を声言し劉国安を前鋒として檄し自ら兵3千を率いて徐州城下に駐まり徳全を招いた。徳全は終に図られることを疑い出ず、豊紳を獄に繋いでこれを殺し、杜政を遣わして城を出させた。安国は既に宿州に至った後、用安は再び安国を召して還らせようとしたが安国は従わず、独り重僧努と共に赴援した。行きて臨渙の龍山寺に及んだ際、用安は人を遣わしてこれを刼殺した。遂に徐州を攻めたが3ヶ月を越えても下せず、退いて漣水に帰った。ここで因世英は用安が終に赴援しないことにより朝に還ろうとし、宿州の西で大兵に遇い屈せず死んだ。事が聞こえて汝州防禦使を贈られた。まもなく用安は軍食が続かず宋に糧を乞い宋は陽(表向き)にこれを許した。すぐに宋の衣に改め私かに朝使と相親しんだが、まもなく食を増やしたところ軍民は多く亡去した。すぐに蕭均に命じて厳刑で逃亡を禁じさせ血が道に満ちるほどであった。大元の東平万戸の扎拉が兵を率いて漣水に至ると遂に降った。
  • 扎拉がすでに河を渡って蔡州に趨くと、用安は詭計をもって漣水に還り再び宋に叛帰し、浙東総管忠州団練使として淮閫に隷した。甲午(天興3年、1234年)正月、大兵が沛を囲んだと聞き用安は往いてこれを救ったが敗れて徐州に走った。ちょうど移兵で徐を攻めると、用安は水に投じて死に、その屍を求めて面を剥ぎ馬尾に繋ぎ、怨家の田福の一軍が臠食(切り刻んで食う)して尽きたという。用安は形状が短小で無須(髭がなく)、輕薄な子と遊ぶことを喜び、日々毬打ちを衢市の間で行い顧盼自矜(自惚れて周囲を見回す)し将帥の大体を持たなかった。介、字は介甫、平州の人、正大元年(1224年)経義進士第一で、時に用安の参議であった。
  • 当初、天祐らが汴を出た際、微服で間行し北軍の営幕を経て通許の崔橋に至り、始めて義軍招撫司の官府があったが、京師を去ること2百里であった。陳州に至ると防禦使の鈕祜祿納紳が始めて州事を立てたばかりで、2日留まり項城に至ると県令の朱珍が縣事を立て士卒千2百人がいた。太和県に至ると県令の王義が縣を立てて既に5月であった。8月、宿州に至ると重僧努は報を得てまた朝廷が権宿州節度使兼元帥左都堅の命を授けたと知り、真に彩輿・儀衛で城を出ること5里して迎え奉った。この時、東方は朝廷の音信を知らずに既に8月になっていた。官民は使者が至ったのを見て且つ拝し且つ哭した。張顕なる者があって任侠尚気(義に厚く気概のある)で義理を知り、天祐に「東方は朝廷の音信を知らずすでに数月になる、今使者が至るのを見て百姓は皆感動している、もし聖旨をもって撫慰しなければ東民の心を失うことを恐れる、私は制を矯称(勝手に)して宣諭してみたいがどうか」と語った。天祐は書生で規矩を守り敢えて従わず、ただ宰相の旨をもって州民を集めて慰撫した。州民は再び大いに哭した。翌日、徐州に往いた。