紅襖賊から金への帰順と伐宋の失敗
- 時青、滕陽の人。初め叔父の全と共に紅襖賊であった。楊安兒・劉二祖が敗れるに及んで赦を承けて来降し軍中に隷した。興定初、青は済州義軍万戸となった。この時、叔父の全は行樞密院経歴官であった。興定2年(1218年)冬、全は駅を馳せて東平を過ぎた際、青が来て見え全に将に叛して宋に入ろうとしていることを告げたが、全はこれを秘した。しばらくして青はその衆を率いて宋に入った。宋人はこれを淮南に置き亀山に屯させた。衆は数万を有した。興定4年(1220年)、泗州行元帥府の赫舍哩約赫徳が人を遣わしてこれを招くと、青は書をもって来た。その書に「青は本来滕陽の良民であるが時の乱離に遭い老幼を扶携して草莽に地を避け、官吏の不明によりこの心は目に叛逆と映され死を逃れるところがなく淮海に竄匿し親旧を離れ郷邑を去った。どうしてこれが人情の楽しむところであろうか。僕は生を偸んで食を他国に寄せているとはいえ、首丘の念(故郷を思う気持ち)は未だかつて一日も忘れたことはない。もし朝廷が青の罪を赦せば、邳州を仮に貸してほしい、老幼をここに屯め当然盱眙を襲取し淮南を尽く定めて往昔の過ちを贖おう」とあった。
- 約赫徳は返書して「公らは初めより無罪であった、誠に国のために功を全うして来帰できるなら即ち吾が人である。邳州は吾が城であり吾が人がこれに居るのに何の不可があろうか。易に『君子は幾(機会)を見て作す、終日を俟たない』とある、公はこれを亟く図られよ、父母の邦に生還すれば富貴は終身、後世に芳を伝えることになる、異域に羈縻され兵虜と目されるのと、どちらが良いか」と述べた。約赫徳がこの事を奏すると、10月、詔で青に銀青栄禄大夫を加え滕陽公に封じ本処兵馬総領元帥兼宣撫使とした。青は潜かに表を奉じて陳謝し、再び邳州を求めた。樞密院は「青の意はただ邳州を得たいだけかもしれない、約赫徳に諭させ、もし青が誠実に来帰するなら当然これを授けるべきだが、その詐りを審らかにできればさらに人を遣わして宋境に入らせ往来の言及び授けた官爵を宣布させることもまた間の術である」と奏した。青は結局邳州を得られず、再び宋のために守った。
- 興定5年(1221年)正月25日夜、青は泗州西城を襲破し提控の王祿が害を被った。この時、時全は同簽樞密院事であり、朝廷は青が西城を襲破したことを知らずただ「宋人」とだけ称していた。詔で全を泗州兵督に遣わして西城を取らせた。全は泗州に至って紅襖賊の一人を獲て詰問し初めて青が宋の京東鈐轄であることを知った。全は頗る喜んですぐにその人を殺して口を滅した。約赫徳は昼夜力戦し死士を募って梯衝で城を逼めたが、青は縋兵で出て拒み前進できなかった。約赫徳は提控の王応孫を遣わして城の東北隅を穴し、青は夜に兵を出して襲撃してこれを却けた。2日を越えて再び出て、また却けた。攻城はますます急となり、青は舟兵2千で城中の兵と合流して約赫徳の営を犯そうとしたが、提控の鄂爾多が先にこれを知って伏兵を設け掩撃したところ青の兵は大敗し淮水に溺死した者は千人に及んだ。これより再び出なくなった。王応孫の穴城はまさに城中に及ぼうとしていたが、青はこれに気づき地に薪を焼べて逼め出させた。青は城に乗って指麾していたが流矢が目に中り、残りの衆は往々にして創を被り、楼堞は相継いで摧壊し城中は恟懼し遂に固志(固守の意)がなくなった。2月26日夜、青は衆を率いて走り、遂に西城を復した。
- 元光元年(1222年)2月、全と元帥左監軍の額爾克は三路の軍馬を節制して宋を伐つよう命じられ、詔で「卿らの重任は不和を致さず喪敗を貽さぬこと、その資糧は取り規るべきである、取るに失があって得られなければ罪は額爾克にあり、既に得たものを運致して我の用としなければ罪は全にある」と述べた。全と額爾克は頴・寿から進んで淮を渡り、宋人を高塘市で敗り固始県を攻め宋の廬州の将の焦思忠の兵を破った。まもなく生口を獲て宋の詔で時青が来て全の兵を拒んだと言ったが、全はこの事を匿した。5月、兵が還る際、淮を距てること20里、諸軍がまさに渡ろうとした際、全は詔を偽って「諸軍はしばらく留まって淮南の麦を収めるべきだ」と称し、すぐに令を下し人ごとに麦3石を獲て軍衆に給し人心を惑わした。額爾克及び将佐がこれを勧めたが聴かず軍を留めること3日。額爾克は全に「淮水は浅く狭い、速やかに渡ることができる、今方に暑雨、もし暴漲に値すれば宋がその後に乗じて完帰できなくなる」と述べたが、全は力めてこれを拒み、従宜の達哈・伊実布・色埒黙・李辛は稍々不平であった。全は怒って「額爾克は一帥に過ぎない、汝らはこれに党する、汝らが今日この地位に至ったのは皆吾の力であり、私は院官である、汝らに何をなしても不可はない」と述べ、衆はすぐに敢えて言わなくなった。
- この夜、大雨が降り翌日、淮水は暴漲した。そこで橋を作って軍を渡らせたが、宋兵がこれを襲い軍は遂に敗れ続いて橋が壊れた。全は軽舟で先に渡ったが士卒は皆覆没した。宣宗は詔でこれを誅し、官を遣わして潰軍を招集させ、詔で「大軍が淮を渡り毎に功効を立てんとしたが、諸将の謬誤で部曲は散亡し流離憂苦した、朕は甚だこれを閔れる、各々旧営に帰り勉めて自ら効を図れ」と述べた。また詔で「陣亡の把軍品官の子孫で15歳以上の者は品官子孫の例に依り随局承応し、15歳以下10歳以上の者は品に依り随局で俸を給し成人に至らせよ、本局に差使がない子孫の官には例に依り俸を給し、贈るべき官・賻銭・軍人の家口で養贍すべき者はすべて旧制の通りとする」と述べた。
史論
- 賛に曰く、金は章宗の季年より宋の韓侂胄が難を構え隣境の亡命を招誘して中原を撓した、事はついに成らなかったが、青・徐・淮海の郊の民心は一たび揺らぎ、歳々饑饉に遇い盗賊が蜂起し互いに長雄をなし、また自ら屠滅し無辜に害を及ぼすこと十余年、麋沸(大混乱)は未だ息まなかった。宣宗は靖難を思わず再び伐宋の挙をなし、金の亡ぶに至るまでその禍はますます甚だしかった。簡書に載る国用安・時青らの遺事は今に至って仁人君子がこれを読めば、なお終日眉をひそめる。当時の烝黎(民衆)は釜の中の魚のようであった、どうして自存できようか。兵は凶器である、金は兵をもって国を得たが、また兵をもって国を失った、慎まざるべけんや、慎まざるべけんや。