金史卷一百十七 列傳第五十五 王賔

亳州反正の英烈

  • 王賔、字は徳卿、亳州の人。貞祐2年(1214年)進士。外は曠達なようであっても深く謀画があった。初め蘭陵主簿に調され虹県令に辟召され、まもなく尚書省令史に入ったが事に坐して罷められ郷里に帰った。天興元年(1232年)正月、亳州軍が変じ節度使の鈕祜祿経実は出走した。楊春は州をもって降を出したが、まもなく自ら羸兵をもってこれを守った。賔は前の譙県尉の王進、魏節亨、呂鈞と共に城中の軍民を約して州を復し、楊春は遂に遁れた。節亨を帰徳に遣わして聞かせると、哀宗はこれを嘉し進に節度使、賔に同知節度使、節亨に節度副使、鈞に観察判官を授けた。楊春は再び兵をもって攻めに来たが月余で拔けず、すぐに河を渡って北した。
  • 6月、哀宗が蔡に遷る際、賔は州北の高安でこれを迎えた。上は語ってこれを大いに悦び、用いるのが遅かったことを恨み、行部尚書世襲穆昆に擢用した。上が初めて亳に至った時、賔らはちょうど民丁を徴して鉄甲を負い蔡に入らせていた際、及び忠孝軍家属の口糧を会計するため、参知政事の張天綱を留めてこれを監督させ、就いて遷って功のあった将士に加増させた。この時、亳の糧儲は広くなく賔らは常に軍士に対して吝惜であった、これによって帰する怨みがあった。また甲を運ぶ役に及んでまた行くことを欲しなかった。ちょうど天綱が賔らと共に一楼上で立功者の等第を銓次(審査)していた際、鎮防軍の崔富格・王六十の徒が甲を被って譁噪し楼に登った。天綱は「即座に殺されるならば、私に闕を望んで拝辞させてくれ」と問うたが、賊は「相公に及ばぬこと」として、すぐに賔及び呂鈞を市中に引きずり出した。鈞は行きながら跪きながら涕泣が止まらなかったが、賔は岸然として懼れず大呌して「私を殺すだけでよい、ただ殺せ、ただ殺せ」と述べ、遂に併せて害された。
  • 節度副使の魏節亨、節度判官の孫良、観察副使の孫玖珠は皆害された。また数日後、節度使の王進が殺された。進はかつて経実の募集に応じ間道から汴京に入り奏を納めたが、賞として物を与えられても受けなかった。また家の所有を散じて貧民を済い、死をもって自ら励んだ。汴に至ってその功労により本州の判度判官に遷り、白金を賜られたがまた受けなかった。一時甚だ称された。李喜珠なる者がおり、本来宿州の重僧努の下の宣差であった。天興2年(1233年)4月、糧を進めて帰徳に入り、まさに還ろうとしていた際、亳州で王進が反正した(乱に加担せず正しい側についた)と聞き、制旨で喜珠を振武都尉とし兵3千を率いて応援させた。この時、大兵が亳を囲んでおり歩騎10万であった。喜珠は衆寡敵せずと知り独り3人と共に間道で入城した。王進はまさに左軍を林(移動先)に遷すことを議したが、喜珠は不可とした。進はすぐに兵を喜珠に付し、大兵は8日攻めても下せなかった。
  • 5月壬子、兵は退いた。己未、官努は阿里哈と忠孝軍百人を率いて亳に至り、諸将と遷るべきか否かを議した。「遷すべきでない、当然輜重を蔡に留め軍を選んで扈従し聖朶(陣営)に入り武仙軍に就くべき、遂に関中に入る。関中は地利が恃むに足る、また郭哈瑪爾らの軍が西にあり恃むべき」との意見であった。甲子、詔で官努を召し帰徳に還らせようとしたが行かず、再び召してその軍の半分を亳に留めてから赴いた。6月壬辰、車駕は舟行で亳に至った。王進が奏して「臣は本来軍伍の出身で治体を知らない、李喜珠のように扈従して蔡に入れば亳は守れなくなります」と述べた。詔で喜珠を集慶軍節度使とし便宜従事させ、進に帥職を領させた。7月、進が死んだ。喜珠は先に城父に往いて糧運を督していたが、乱を聞いて遂に敢えて亳に入らず、後に宋に投じた。

史論

  • 論に曰く、金末の乱は軍士が偏裨に代わろうとし、偏裨は主将に代わろうとし、そうすれば群がって起こってこれを覆すこと、憚りなくなる有様であった。伊都・経実は皆忠亮の士であり、賔・進は才略が特に取るに足りるものであったが、皆難を免れられなかった。惜しいことである。