金史卷一百十四 列傳第五十二 白華

樞密院の枢要と滅亡直前の献策

  • 白華、字は文舉、澳州の人。貞祐3年(1215年)進士。初め応奉翰林文字となり、正大元年(1224年)、累遷して樞密院経歴官となった。2年(1225年)4月、武仙が真定から帰順し、朝廷がまさに河北を経理しようとしていた折、宋将の彭義斌がこれに乗じ山東から邢・洺・磁等の州を取った。華は上奏して「北兵は河西に事あるゆえ我が方に少し寛(余裕)ができている、今、彭義斌が河朔の郡県を招降し駸駸として真定に及ぼうとしている、この機に及んで大挙してこれを除くべきだ」と述べたが、この時、院官はこれを行おうとせず、すぐに華を彰徳の視察に遣わし、実はこれを退けようとしたのであった。事は結局行われなかった。
  • 3年(1226年)5月、宋人が寿州・永州の桃園軍を掠め失利、死者は4百余人に及んだ。この時、夏全が楚州から来奔し、11月庚申、百官を集めて宋との和議を議した際、上が全の来た経緯を問うと、華は「全は初め盱眙にあり宋帥の劉卓に従って楚州に往ったが、州人は劉大帥(卓)が来たのは城中の北人(金人)を屠ろうとするためだと訛言を流し、衆軍は怒って卓を殺し城をもって帰順した。全は結局自ら安んじられず盱眙に逃げ走ったが、盱眙は納れず城下で妻子を索めても従わず、計をなすすべもなく狼狽して北に来た、ただ自ら免れることを求めただけで他の慮りはない」と奏した。華はこれによって皇帝に知られるようになった。
  • 全が至った後、盱眙・楚州の王義深・張恵・范成進が相継いで城をもって降ったため、詔で楚州を平淮府に改め、全を金源郡王・平淮府都総管とし、恵を臨淄郡王、義深を東平郡王、成進を膠西郡王とした。宋との議は寝された。4年(1227年)、李全が楚州に拠り、衆は皆盱眙は守れないと言ったが上は従わず、淮南王をもって全を招いた。全は「王義深・范成進は皆我が部曲であるのに王封を受けている、私をどう処するのか」と述べ結局至らなかった。この年、慶善努が亀山で敗績した。5年(1228年)秋、帰徳城の増築で工数百万を擬した際、宰相は華を遣わしてその役を視察させることを奏した。華は行院の斡色辛(賜姓)に会い民の労苦・朝廷の愛養の意を語り、工事を3分の1減らした。
  • 6年(1229年)、華を権樞密院判官とした。上は忠孝軍総領の富察鼎珠、経歴の王仲澤、戸部郎中の刁璧及び華を召して「李全は楚州を拠有し山東を睥睨すること久しく必ず患いとなる。今北事は稍緩んでいる、この隙に乗じて鼎珠に権監軍として統べた軍1千を率いさせ別に都尉司の歩軍万人を遣わし璧・仲澤を参謀としてこれに同行させ沂海の境に招きに行かせ、従わなければ軍馬をもって事に従わせようと思う、卿らはどう思うか」と諭した。華は「臣が思うに李全は大兵の勢いを借りて宋人に供給・餽餉を要求している、ただの一滑寇(狡猾な盗賊)に過ぎない、老狐が塚穴に潜んで夜を待って出るようなもの、どうして懐に介する必要があろうか。我らが慮るべきはただ北方の強さのみだ。今北方は事あって未だ南図の暇がないが、一旦事が定まれば必ず攻めて来るだろう、我と天下を争うのはこれ(北方)である、全がどうしてこれに関わろうか。もし北方の事が定まれば全はまさに命を聴くだろう、たとえ自量を誤り更に非望の天下を望む人があっても、どうして逆順を知らないでいられよう、そちらが順を去って逆に従おうとするだろうか。今の計としては、しばらく士馬を養って北方に備え、全に果たして不軌の謀があるなら北朝が息兵する日に発せられるだろう、この時なら我はやりやすい」と対した。上は沈思すること良久しく「卿らはひとまず退け、私にさらに考えさせよ」と述べた。翌日、鼎珠を還らせ尉氏に屯させた。
  • この時、陝西の兵の大勢はすでに去っており、留守として托和倫を慶陽に駐まらせて河朔を擾させ、しかも河中攻撃の噂もあった。衛州帥府と恒山公府が並立し一旦警あれば節制が一つでなくなることを慮り、二府を合わせて一つにしようとしたが、その不和を恐れ、華に往いてこれを経画させることとした。当初、華は院にあってしばしば面諭を承け「汝は院官として軍馬を責められるのではない、汝の弁舌に免じて、ただ喀齊喀・布哈が皆武夫で一語も相入れず齟齬すれば事を害することが小さくない、汝がこれを調停せよ、あるいは乖忤(食い違い)あれば罪は汝に及ぶだろう。院中の事は当然一々奏すべきで、これが汝の職である」と言われていた。今の衛州の委任もまた前日の調停の意である。
  • 国制で、樞密院の上下がその上申を倚任する者を「奏事官」と名づけ、その目は3つ、一に「承受聖旨」、二に「奏事」、三に「省院議事」、皆一人がこれを主った。承受聖旨とは、凡そ院官の奏事あるいは上(皇帝)の処分について、独り奏事官を召してこれを付し、多くは1、2百言に至るか、あるいは直に上旨を伝え、辞が多い場合はすぐに近侍局官に批寫させることを言う。奏事とは、事に区処あって奏裁を取るべきものは殿で奏することを言う。その奏はいつも辭費(冗長)を嫌い必ず言簡意明を欲する、退いて奉行すればすぐに文字を立てこれを「検目」と呼ぶ。省院官が殿上で議事すればこれを黙記し、議が定まって院に帰ればまた検目を立て呈覆する、疑いあれば再び稟し、なければ掾吏に付して施行する。その省に議に赴く者は、議が既に定まれば奏事官を留めて省の左右司官と同じく奏草を立て圓覆(議した内容を回して確認)し、諸相に異同がなければ右司が奏上する。この三者の外にさらに難しいものがある、「備顧問」というもので、軍馬・糧草・器械・軍帥部曲の名数、屯駐の地理・阨塞の遠近の類、凡そ省院の一切の事務は顧問の際、一つも応じられないと輒く不用心の咎めを受ける、その職は甚だ難しい、故に華をこれに当てた。
  • 2月、丞相薩布は尚書省事を関中で行い、布哈は完顔陳和尚の忠孝軍千を率いて邠州に駐まり、北勢を審観するよう命じられた。このように2月が経った頃、上は白華に「汝は邠州に往くのに6日で往復できるか」と問い、華は自ら1日で3百里馳せられると量って「できます」と答えた。上は密かに布哈に諭させ「わずか春の初めに慶陽の事に当たれ」と命じた。華は期日通りに還った。ある日、上は華を顧みて「私は汝がこれまで征進に及ぶと必ず難色を見せてきたのを見てきたが、今回の挙は特に平時より鋭いのはなぜか」と語った。
  • 華は「かつては用兵は南征及び李全討伐の事にこれを妨げられ北方に専意できずにいた、故に北向を難と考えていた。今日は平時と異なる、況や事がここに至っては一挙せざるを得ない、大軍が界に入って既に3百余里、これを縦って秦川に下らせればどうして救えようか、終には一戦してこれを摧かねばならない。近裏の平川で戦うよりも近辺の険隘で戦うに如くはない」と述べ、上もまたこれを然りとした。7年(1230年)正月、慶陽の囲みが解け大軍が還ると、白華は上奏して「今の計は兵食が急である、樞密院がすでに定めた忠孝軍及び馬軍都尉司の歩軍は一戦の資となるに足る。この他、河南の府州もまた簽括して防城軍とすべき、秋に集めて春に放つ、古の農を務め武を講ずるの義に依るべし、各々本州府城を防がせれば、今見在の97万をもってあの他日敵に資する用となることのないようにできる」と述べた。5月、華は真に樞密判官を授けられ、上は近侍局副使の斉錦を遣わして旨を伝え「朕が汝を院官に用いたのは兵を将いて対壘することを責めるためではなく、ただ汝に軍中の綱紀を立て文移を発遣し将帥を和睦させ非違を糺察させたいだけである。軍伍の閲習や器仗の修整については皆汝の職とする、力を尽くして国家のため朕の意にかなうように」と語った。
  • 8年(1231年)、大軍は去歳から陝西に入り京兆・同華の間を翺翔し南山の砦柵60余所を破り、まもなく鳳翔を攻めた。金軍は閿郷から屯を澠池まで延ばしたが両行省は晏然として動かず、宰相・台諫は皆樞院が瞻望逼遛していると言い、京兆の士庶も横議が蜂起して諸相が力奏するに至った。上は「哈達・布哈は必ず機会を相度している、進むべき時は進むはずだ、督して戦わせれば結局勉強に出ることになり益なくかえって害となることを恐れる」と述べ、華と右司郎中の瓜爾佳巴喇瑪を遣わし宰相・百官の言うところを道し、目今2月を過ぎ怠帰の形があるが諸軍が動かないのはなぜかを問わせた。詔で華らは6日で往復した。
  • 華らが至って両行省に上意を諭すと、哈達は「機会が見えないだけだ、見れば動く」と言い、布哈は「彼の軍には全く糧餉がない、戦おうにも戦えず留まろうにも留まれず、自ら敝れよう」と述べた。哈達は布哈及び諸帥の前では「動くべきでない」と言うが、士大夫に会うと「動くべき」と言った。人は「哈達は近ごろかつて罪を得たため、また布哈は方に君の信を得ているため敢えて抗しない」と考えた、しかし哈達もまた動くべきでないと言っていた。華らは二相が北兵の勢いの大きさに皆懼れの心を懐いていると観取し、密かに樊沢・鼎珠・陳和尚に問うと、三人は皆「他人は北兵が疲困していると言うので攻められると考えているが、この言葉は非である、大兵の所在では軽々に料ることはできない、実にこれは動くべきではない」と述べた。華らは還って二相及び諸将の意を奏すると、上は「私はもとよりその怯えて動けないことを知っている」と述べ、すぐに再び華を遣わして旨を伝え二相に「鳳翔の囲みは久しく、守る者が支えきれないことを恐れる、行省は軍を領して関を出て華陰の界に次り、翌日には華州に及び、稍渭北軍と交手すれば大兵はこれを聞いて必ず奔赴するだろう、これで少し鳳翔の急を紓めながら我もまた掣肘の計を得られる」と諭した。
  • 二相は還って旨を領したことを奏した。華が東に還って中牟に至ると、既に両行省の奏を納める使者が華に追いつき、密院に報を副って読んだところ「旨を領して軍を提げ関を出ること20里、華陰の界に至って渭北軍と交わったが、この夕には軍を収めて関に入った」とあった。華はこれに天を仰いで浩歎し「事がここに至ってはどうしようもない」と述べた。華が京に至って奏章がすでに達し奏したことが徒然(無駄)であったことを知ったが、2、3日を経ずして鳳翔は陥落した。両行省は遂に京兆を棄て約赫徳と共に居民を河南に遷し慶善努を留めてこれを守らせた。
  • 夏5月、楊妙真は夫の李全が宋で死んだことにより浮橋を楚州で構え北帥の蘇埒呼図哩に赴いて仇討ちの師を乞うた。朝廷はこれを偵知し、北軍が果たして淮を渡れば、淮は河南とわずか跬歩(一足)の間であると考え、哈達・布哈を遣わして軍を桃源界の滶河口に駐屯させこれに備えさせた。両行省は宋帥の趙范・趙葵と夾攻の計を約したが、二趙もまた人を遣わして返礼を報じ共に議和を名目として声勢を張った。二相はしばしば軍の少なさを言い省院がこれを難としたため、上に「これまで附関に半年屯駐しちょうど旧屯に還った、喘ぎも収まらぬうちにさらに暑月に東行させようとしているが実に図るべき事がなく、徒に自ら疲れるだけだ、しかも桃源・青口を兼ねるのは蚊虻・湫濕の地であり牧養に便でない、今月は決して征進の時ではなく妄動を敢えてしないでいただきたい、しかも我が慮るところはただ楚州の浮橋のみである、しばらく計をもってこれを図りたい、すでに提控の王鋭を遣わして可否を視させることにした」と上奏した。上は白華をもってこの旨を二相に伝え、王鋭に兼領させることを合わせて伝えたが、二相はこれを悦ばなかった。
  • 布哈は水軍を虹県の屯にある王提控に遣わして小船24隻をもって華に順河して下り必ず八里荘の城門を到達点にせよと命じ、しかも「ここから八里荘を望むと雲間・天上の如し、省院はここに端坐してただ口先だけで事を語っている、今、樞判が親しく来た以上、可否を相視し帰ってから奏すべき」と述べた。華は力めて辞したが免れられず、遂に舟に登り、淮と河が合流する処に至ってわずか八里荘の城門に及ぶ相直(相対する)位置で、城を守る者が白鷂大船50隻で流れを遡って上り、その上流を占めて華の帰路を截った。華はほとんど還れなかったが、昏黒の中で径路を得て先に帰り、両省が朝省が軍を益さないことに怒り、皆華らがこれを主張しているとしてわざと彼を険地に擠したのだと悟った。この夜、二更以後、八里荘の次将が人を遣わして送款し「早朝、主将が城を出て船を開き大金の帰路を截った、某ら(歩兵)は商議した末に主将が還っても閉門して納れないことにした、渠(主将)はすぐに楚州に奔り去った、軍馬の接応を発することを乞う」と伝えた。二相はすぐに兵騎を発して船を開き約に赴いた。翌朝入城して安慰し、また楚州の大軍がすでに還り河朔の宋将が浮橋を焼いたことを知り、二相は華に附して奏を納めさせると、上は大いに喜んだ。
  • 当初、哈達が宋の淮陰を取ろうと謀り、5月、淮を渡って淮陰に至った際、その地の主者の胡路鈴は楚州に往いて楊妙真とこの件を計り、還ると提正官の郭恩は金に送款を伝え、胡は還っても納れず慟哭して去った。哈達は遂に淮陰に入り、詔で歸州に改め行省の烏庫哩雅爾噶に守らせ、郭恩を元帥右都監とした。まもなく宋人が銀絹5万両匹をもって盱眙・亀山を贖おうと来た際、宋使は館中に留まり、郭恩は謀って刼してこれを取ろうとしたが、ある者がこれを盱眙帥府に報告し、すぐに軍が至って恩は発せられなかった。翌日、宋将の劉虎・湯孝信が船30艘で浮梁を焼き、その将の夏友諒を遣わして盱眙攻撃に来たがまだ下せなかった。泗州総領の完顔実格が館中で絹を賫していたことに反対し防禦使の図克坦達喇はこの変を聞いて罘山亭の甬路に扼して好んで「私に朝廷に拝辞させてから死なせてほしい」と述べ、朝服を取って闕を望んで拝し良久しく慟哭し亭の下から水に投じて死んだ。実格は遂に州を楊妙真に帰し、総帥の納哈塔邁珠もまた盱眙をもって宋に降った。
  • 9月、陝西行省が防秋する時、大兵は河中にあり睿宗はすでに兵を領して境界に入っていた。慶善努は力尽き糧尽きて京兆を棄てて東に向かおうとしていた。ある日、白華は「偵候の報によると睿宗が領する軍馬は4万、行営軍は1万とあり布置はこの通りである、今の計としては、漢に赴いてこれを禦ぐのを待つよりも、諸軍が至るには半月かかる、径ちに河中に往くべきだ、今、河に沿って屯守しており一日で渡ることができる、こうすればここで利を得ることができ襄漢の軍馬は必ず遅疑して進めなくなる、北にあっては投機(すきに乗じること)となり南にあっては掣肘となる、臣はこのようにするのが便だと考える」と奏すると、上は「この策は汝の画したものであろうか」と述べ、華は「臣の愚見はこの通りです」と答えた。上は平日、武事に鋭かったため、華の言を聞くと欣快の様子であったが、結局行われなかった。まもなく哈達が陝州から進めた奏帖もまたこの事のためであった。上はこの奏を得て甚だ喜んだ。布哈はこの時洛陽にいたが駅で召された。蓋しこの計に意があったのである。布哈が至って奏対の間、この件に及ばず、ただ大兵の前鋒である特黙岱が統べる軍がまさに冷水谷口を出ようとしている、まずこの軍を禦ぐべきだと言った。上は「朕はこれを問うているのではない、ただ河中を撃つべきかを問いたいだけだ」と述べたところ、布哈はやむを得ず「睿宗が領する兵は騎兵も多いが皆冗雑なもの、大兵の軍は少なくとも精鋭で選鋒でないものはない、金軍が北渡すれば大兵は必ず輜重を平陽の北に屯させ選鋒を隠して百里の外に放ち我が師を渡らせてから我が帰路を断ち我と決戦しようとするだろう、恐らく利を得られない」と語った。
  • 上は「朕はお前がこう言うだろうと料っていた、その通りだ、これ以上議論する必要はない、しばらく陝州に還れ」と述べた。布哈は「哈達は樞密使であり彼の言うところをこの間で一面から覆すのは恐らくまだ尽くしていまい、召してから一緒に可否を議すことを乞う」と述べた。上は「哈達も見るところはこの通りに過ぎない、往復して遅滞すればかえって事を誤ることになる」と述べたが、華は「哈達は必ず機会を見ている、召して一緒に議するのが便である」と奏し、副樞の持嘉喀齊喀もまた布哈・白華の言が是であると奏したので、上はこれに従った。哈達を召して至らせ、上は先に樞密院で議を定めさせてから入見させることとした。既に議した際、華は哈達の奏帖を執って再三示したが、結局誰も先に発言する者がなかった。しばらくして布哈が「まず冷水谷の一軍を勾当(処理)してはどうか」と述べると、哈達は「その通りだ」と述べ、遂に入見した。上は「卿らの議はどうであったか」と問い、哈達は多くを敷奏したが、大概「河中の事は先日上奏した時勢とは異なる、上奏したことも自ら主張することを敢えてしない」と言い、議は寝された。二相は陝に還り軍馬を量って冷水谷に出し旧例に依って行事するのみであった。
  • 12月、河中府が破れた。開興元年(1232年)、京城が攻めを受け、4月に兵が退き、天興と改元した。この月16日、樞密院を尚書省に合併し、宰相が院官を兼ね左右司の首領官が経歴官を兼ねることとした。ただ平章の博索・副樞の喀齊喀のみは院判の白華・権院判の完顔呼喇勒を罷めた。呼喇勒は口辯があって上に愛幸されており、朝議は呼喇勒を罪すべきとしていたが、書生輩(同僚の文官)は華が主の信任を得ていることを妬みかつて言葉で撼っていたため、これによって罷められた。金制の樞密院は兵を主るとはいえ節制は尚書省にあった。兵興以来この制は漸く改まり、凡そ軍事において省官が院官に預ることができず、院官が独任専見(独断専行)することによってしばしば事を敗った。言う者は多く将相の権を分けるべきでないとし、ここに至って初めてこれを合併した。
  • 12月朔、上は近侍局提点の伊喇寧古を白華の居所に遣わして事勢がここに至ったについて計をどう出すべきか問わせた。華は附奏して「耕稼はすでに廃れ糧斛はまさに尽きようとしています、四外の援兵は皆指し当てにできません、車駕はまさに出て外兵に就くべきです。皇兄の荊王を留めて監国とし彼にその裁処を任せてはいかがでしょう。聖主がすでに出た以上、使者を遣わして北朝に告げ語り、私が出たのは他ではなく、軍馬を収整するためであり、ただ軍卒が唐慶を擅に誅した罪によって和議はこれより断絶しました、今、京師を荊王に付し、私に一二州を乞い老いたいだけです、と伝えれば、太后・皇族は存すことができ、まさに春秋で紀季が齊に入って附庸となった事と同じです、聖主もまた少し寛められましょう」と述べた。ここで華は右司郎中に起用された。
  • 当初、新しい巡行(避難計画)の計が決まった際、諸将は皆その議に預り、退散しようとした際、首領官の張衮・聶天驥が「なお旧人で軍務に諳練な者がいる、それを置いて用いないのは不十分ではないか」と奏した。上は未だ用いていない者は誰かと問い、皆「院判の白華」と答えた。上はこれを頷いた、故にこの命があった。翌日、華を召して「親巡の計はすでに決した、ただ往くべき所は群議が未だ定まっていない、ある者は帰徳は四面背水で自守できると言い、ある者は西山に沿って鄧に入るべきと言い、ある者はもし鄧に入ろうとするなら大将の蘇布特が今汝州にいるので、陳・蔡路を取って鄧に転往すべきと言う、卿はどう思うか」と諭した。
  • 華は「帰徳城は堅固であっても久しくて食が尽きれば坐して斃を待つのみである、決して往くべきでない。鄧に往こうとしても、汝州に蘇布特がいる以上、断じて行けまい。今日の事勢では、博徒(賭博者)のいわゆる『孤注』(全てを賭ける最後の勝負)というものになる。孤注というのは、ただ背城の戦のみがあるということです。今日の計としては、直ちに汝州に赴いて一決すべき、楚あれば漢なく、漢あれば楚なし(両立不可)です。汝州で戦うよりも半途で戦う方がまだよく、半途で戦うよりも城を出て(今すぐ)戦う方がさらによい。なぜなら、我が軍の食糧の力はなお在り、馬もまた豆(飼料)の力がなお在るからです。もし京を出てさらに遠くなれば軍食は日々減り馬は野草を食べることになり、事はまた難しくなります。もし我が軍がまさに戦えるうちに存亡をこの一挙に決すれば、外は三軍の気を激することができ、内は都人の心を慰めることができるでしょう。あるいはただ避遷の計としてのみこれを行うなら、人心は家業を顧恋し必ずしも毅然として従行しないでしょう、詳審されるべきです」と述べた。
  • ここで諸相及び首領官を召して同議させ、哈薩喇・烏達布・元帥珠爾・高顕・王義深は皆帰徳の議を主張し、丞相薩布は鄧の議を主張し結局決められなかった。翌日、制旨で京城の食がすでに尽きたので今親出を擬すると、大慶殿に軍士を集めてこの意を諭した。諭し終わると諸帥将佐は合辞して「聖主が親出すべきでない、ただ将を命じるべきです、三軍は喜んで国のため死力を尽くすでしょう」と奏した。上は猶予しつつ官努を馬軍帥、高顕を歩軍帥とし劉益をこれに副えようとした、これは輿議(世論)を採ったものであった。しかし三人もまた命を奉じようとせず、権参政の内族恩楚は大罵して「お前らは鋤(農具)を持つだけで高下も分からないのに、国家の大事を敢えて易しく承ろうとするのか」と言うと、衆は黙然となったが、官努のみが「もし将相がこれで済むなら、私らのようなものが担うことになったのか、事はここで中止だ」と述べた。
  • 翌日、民間で車駕が皇太后及び妃后を奉じて帰徳に往こうとしており、軍士の家属は後に留めるとの噂が閧き伝わった。今、糧はすでに尽きており、坐視すれば城中は皆餓死する、たとえ帰徳に至れても軍馬の費用はどれほどか支吾(対処)できようか、と言われた。上はこれを聞いて薩布・哈昭・恩楚・烏克遜布希・完顔正大を召して議し、余の人は預らせなかった。しばらくして丞相が出て首領官に「前日の巡守の議はすでに決まったのに、ただ白華一人のために都て改却され、今は汝州に往いて軍馬を索めて戦いを求めることになった」と語った。日を選んで太廟を祭って誓師し25日に出発することを擬した。この月晦、車駕は黄陵岡に至り再び北幸の議があった(博索伝に詳しい)。
  • 天興2年(1233年)正月朔、上は黄陵岡に次り帰徳の運船で北渡した。諸相は共に「京師及び河南の諸州が上が河北に幸したと聞けば他変を生じることを恐れます、詔を下して安撫すべきです」と奏した。この時、所在の父老・僧道が食及び牛酒を献じて軍を犒う者が相い属いており、上は親しく撫慰したため人々はこれによって感泣した。すぐに河朔に赦して兵糧を招集させる赦文の条画十余款を出し2日で分道して伝送した。ある者は「昨日発した河南の詔書がもし大軍中に落ちたら事機が漏れてしまうのではないか」と言い、上は怒って近侍局官に旨を伝えさせ、首領官の張衮・白華・内族額爾克が詔を発する際に後慮をなさなかったことを咎め、皆量って決杖に処した。
  • この時、衛州の軍は2日で蒲城に至り大軍は徐々にその後を躡んだ。15日、宰相・諸帥は上前で共議し、郎中の完顔呼喇勒が筆を執り某軍を前鋒、某軍を殿後とすることを書き、余事も皆条画があったが、書き終わっても行き先だけは言われなかった。華が密かに呼喇勒に問うと、知らないふりをして応えた。この晩、平章及び諸帥は蒲城軍中に還り夜半、額爾克・衮が華の帳に来て「上はすでに舟に登ったが、君は知らないのか」と呼んだ。華がその由を問うと、額爾克は「私は昨日すでに上の意を知った、李左丞・完顔郎中と共に先に帰徳に下り諸軍を並北岸で行進させ鳳池に至って渡河させたいと思っていた。今夜、平章及び哈薩喇元帥・官努らが来て大軍が蒲城にあり金軍とすでに接戦したが勢い支えられそうにないと言い、遂に主上を擁して舟に登らせ、軍資は一切棄て、ただ忠孝軍のみ船に上らせ馬は悉く営中に残された。計るに舟はすでに数里行ったであろう」と言った。
  • 華がさらに「公はなぜ従って往かないのか」と問うと、「昨日、首領官を定めた際、上は呼喇勒に舟に登るよう命じ、余は悉く軍に随うことになった、これによって敢えて(従わ)ない」と答えた。この夜、総帥の拝扎は諸軍を領し舟で鳳池に往き、大軍がこれに気づき兵は遂に潰えた。上は帰徳にあること3月、崔立が汴京をもって降った。右宣徽提点近侍局の伊喇寧古はこれを鄧に謀ったが上は聴かなかった。時に寧古の兄の瑗は鄧州節度使兼行樞密院事であり、その子と寧古の子は共に駕に従って衛士となっていた。ちょうど朝廷が鄧の兵を召して入援させようとしていた折、寧古はこれによって華と共に鄧に往くことを謀り、しかもその二子を拉して行こうとしたが、上はこれを覚り、独り華に行くよう命じ寧古は徐州に改められた。
  • 華はすでに鄧に至ると、事が久しく成らないことにより淹留して館にあり、遂に世に意のないかのようになった。ちょうど瑗が鄧をもって宋に入ったため、華もまた従って襄陽に至った。宋は制斡(官職名)として署し、また均州提督に改めた。後に范用吉が均の長吏を殺し北朝に送款し、遂にこれによって北帰した。士大夫は華が旧来の儒として貴顕でありながら国が危うい時に義をもって自ら処することができなかったとしてこれを貶した。用吉なる者は本姓は富珠哩、名は玖珠、初め宋に帰入し制置の趙范に謁えた際、計をもってその心を動かそうとし、故に姓名を范用吉と変えた。趙はその触諱(忌み名を犯すこと)を怒って斥けたが、用吉はなお応対をもとのようにしていた。趙は良久しくしてようやく悟り、しかもその事が己に符合することを利用しようとし、遂に左右に擢き置き、凡そ言動を疑うことなく、遂にその姓を花に易えさせ太尉とし均州に鎮を改めた。まもなく北に納款したが、後に家人に叛を欲していると誣告され同列に殺された。

史論

  • 賛に曰く、白華は儒者でありながら吏事に習熟し、経生でありながら兵を知り、その論建する所はしばしば事機に中った。しかし三軍が敗衂した後には士気は作されない(振るわない)、その言は果たして行えたのであろうか。瑗に従って宋に帰したことは声名を掃地に落としたが、なお金臣の伝に列せられるのは、蜀の譙周らの例を援用したものであろう。