軍権と汴京防衛の失策
- 持嘉喀齊喀は性が剛愎自用であった。朝廷はその力があることをもってこれを任じた。宣宗時、累遷して蘭州刺史提控軍馬となった。貞祐4年(1216年)11月、夏人4万余騎が定西を囲み攻具を輦してその城を取ろうとした際、喀齊喀及び楊沃哩らは兵を率いて鏖戦してこれを走らせ首2千級を斬り数十人を俘え馬8百余匹・器械もこれに相当する数量を獲、残りは悉く遁れ去った。興定元年(1217年)正月、しばしば夏人を破ったことにより遥授同知臨洮府事兼前職。この冬、陝西行省は詔を奉じて伐宋にあたり、喀齊喀は権行元帥府事として来遠寨に駐まって声勢を張ろうとし、まもなく捷を獲た。2年(1218年)4月、宋兵数千が臨洮を侵すと喀齊喀はこれを撃ち斬獲は甚だ多かった。3年(1219年)4月、元帥左都監行元帥府事に鞏州で遷った。4年(1220年)4月、夏人が辺を犯すと喀齊喀は兵を将いて鹿兒原に次り、夏兵千人に遭って控提の烏庫哩錫馨に偏師を率いさせこれを破り、都統の王定もまた新泉城でその衆を破った。
- 9月、夏人が鞏州を攻めると喀齊喀は兵を遣わしてこれを撃ち、一日十余戦、夏人は退いて南岡に拠り、精兵3万を遣わして城に迫らせたがまたこれを撃走させ、夏将の喇卜丹・置卜裕勒らを生擒し、訊すると夏の大将のニシデイ・鼎烏明の二人が「鞏帥府の所在である鞏がもし下れば臨洮・積石・河洮の諸城は攻めなくても自ら破れよう」と謀っていることを知った。故に先に鞏を攻め、宋の統制程信らに兵4万を率いて来攻させることを結んだ。喀齊喀はこれを聞き兵を飭して厳備し、まもなく兵が果たして至ると督兵して搏戦しこれを却け数千人を殺した。攻めがますます急になり将士は殊死に戦い殺傷者は万を計った。夏人はその攻具を焼き柵を抜いて去った。喀齊喀はすでに要地に伏甲を先に置いておりこれを邀撃し、再び衆を率いてその後を躡んで首を甚だ多く斬った。10月、功により遥授平西軍節度使とされた。
- 元光元年(1222年)、大将の蒙古布哈が鳳翔を攻めた際、朝廷は主将の完顔仲元が孤軍で守禦するに足りないとして喀齊喀に往援させた。2年(1223年)2月、穆呼哩国王・薩勒奇布哈ら及び夏人の歩騎数十万が鳳翔を囲み、東は扶風・岐山から西は汧隴に連ね数百里の間は皆その営柵であり攻城は甚だ急であった。喀齊喀は力を尽くしてようやくこれを禦いだ。時に同知臨洮府事の延扎哈瑪爾がとりわけ力戦した。喀齊喀は便宜をもってこれを通遠軍節度使に昇進させ、皇帝はその功を嘉してこれを許した。この歳、簽樞密院事に昇進した。哀宗即位に際し参知政事を拝命し権樞密副使とした。正大8年(1231年)11月、鄧州が大元の兵が饒風関を破って金州から東下したと馳報し、報が至った時はすでに日が暮れていた。省院官が入って奏すると、上は「事がここに至ってどうすればよいのか」と述べた。
- 上が即位してからここに至るまで8年、東宮にいた頃から13の都尉を立て、毎尉が万人を下らず彊壮趫捷、極めて精練で、歩卒の負担する器甲・糧糗は重さ6、7斗に至り一日夜に2百里を行き、忠孝軍1万8千人は皆回紇・河西及び中州人で掠われて逃げ帰った者、人ごとに従馬を伴い騎射で選ばれ親衛騎兵に補された。武衛・護衛や選外の諸軍もまた20余万であった、故に頻年、太昌原・倒回谷の捷があり士気はすでに振るい遂に一戦の資を有していた。ここに至って院官が同奏し「北軍は万里の険を冒し2年の久を歴てようやく武休に入った、その労苦はすでに極まっている、私たちのために計るには、雎・鄭・昌武・帰徳及び京畿の諸県に兵を屯し大将に洛陽・潼関・懐孟等の処を守らせこれに厳兵を備えさせるべき。京師には数百万斛の糧を積み河南の州郡には壁を聖くし野を清めさせ、城に入れない百姓は山塞に聚保させれば、彼の深入した師は攻めようにも攻められず戦おうにも戦えず、師老い食尽きれば撃たずして自ずと帰るだろう」と述べた。
- 上は太息して「南渡20年、所在の民は田宅を破り妻子を鬻いで軍士を養ってきた、しかも諸軍は無慮20余万あるのに、今敵が至っても迎え戦えず徒に自ら京城を保つのみでは、たとえ存しても何をもって国と為すのか、天下は我をどう言うだろうか」また「存亡には天命がある、ただ民に負わないことこそが肝要だ」と述べ、詔で哈達・布哈らに襄・鄧に屯軍させた。9年(1232年)正月、両省軍が三峰山で潰え北兵が京師に薄迫した。3月庚子、曹王出質を議した。大兵が北行し蘇布特を留めて城を攻めさせたが攻具はすでに準備されており、既に納質の請があったのに、また「我は命を受けて城を攻める、ただ曹王が出れば退く、そうでなければ罷めない」と言った。壬寅、曹王が入辞し宮中で宴が開かれた。癸卯、北兵は攻具を立て壕に沿って木柵を列ね薪草で壕を埋め頃刻に10余歩が平らになった。兵を主る者は議和のためにあえて戦わず、ただ城上で坐視するのみであった。
- 城中は喧闘し、上はこれを聞いて6、7騎を従えて端門を出て舟橋に至った。時に新雨で泥ねかんでいたが、車駕が忽然として出たため人は驚愕し失措し、ただ道傍で跪くのみで望んで拝する者もあった。上は自らこれを麾いて「拝するな、泥が汝の衣を汚すことを恐れる」と述べた。倉皇の中、市肆の米豆が地に狼藉としているのを見て、衛士に勅して各々家に帰らせ、老幼が遮り擁して御衣に誤って触れる者すらあった。少頃して宰相従官が皆至り笠を進めたが受けず「軍士は暴露しているのに、私はこれ(雨笠)を何に用いようか」と述べ、通過する所で慰労した軍士は皆踊躍して万歳を称え、臣らは戦死しても恨まないと述べ、感泣する者すらあった。西南の軍士5、60輩が集まって何か言いたそうにしていたので上は自ら赴いて問うと、跪いて「大兵は芻土で壕を埋め功はすでに半分を過ぎている、平章の伝令はいかなる矢も放つなという、和事を壊すことを恐れているためだが、何の計があろうか」と述べ、上はその中の年長者に「朕は生霊のため称臣進奉し従順にしなかったことはない、ただ一子を養い育て今は行かせて質子とした、汝らはしばらく忍び曹王が出て大兵が退かなければ死戦しても遅くない」と告げると、また拝泣する者があって「事は急である、聖主は和事に望みをかけないでいただきたい」と述べた。
- そこで旨を伝えて城上で矢を放たせた。西水門の千戸劉寿が御馬の轡を控えて仰ぎ見て「聖主は誠を尽くしているのに賊臣が賊臣がすべてを台無しにする、大兵は退いたぞ」と述べた。衛士がこれを撃とうとしたが上はこれを止めて「酔っているのだ、問うな」と述べた。この日、曹王が出て軍前に赴くと、大兵は力を併せて攻めを進めた。甲辰、上は再び出て東門を撫し将士に接した。太学生の楊奐らが前に出て上に事情を白すと、上は何を言いたいのかと問い、彼らは「臣らは皆太学生ですが砲夫(大砲の下働き)の役に充てられています、恐らくこれは国家が百年来士を待遇してきた意ではないでしょう」と答えた。上は勅でその姓名を記させすぐにこの役を免じた。南熏門を過ぎる際、傷を負った者に親しく薬を伝え手ずから杯に酒を酌んでこれを賜り、また内府の金帛を出して功ある者を待とうとした。
- この日、大兵は漢人の俘虜及び婦女・老幼を駆って薪草を負わせ壕塹を埋めさせ、城上からは箭鏃が四方に雨のように降り、頃刻に壕はこれによって平らになった。龍徳宮の砲石造りには宋の太湖・霊璧の仮山を取って用い、大小それぞれ斤重があり、その円形は灯毬の状で、これに度に合わないものがあればその工人を杖に処した。大兵の砲の使用はそうではなく、大磑(大石臼)や碌碡(石の車輪)を割って2、3つに分けて皆用い、攢竹砲は稍(砲身の長さの単位)13に至るものもあり、余の砲もこれに相当した。毎城の一角に砲百余を置き、砲を交互に発射させ昼夜休まなかった。数日を経ずして石はほぼ裏城と等しくなり、城上の楼櫓は皆故宮及び芳華・玉溪から解体した大木で作られていたが、抱えるほどの太い木も撃たれるとすぐに砕けた。馬糞・麦秸をその上に布き綱索・旃褥で固く覆い、その懸風板の外は皆牛皮で障(覆い)とされたが、これでは近づけないと言われていたにもかかわらず、大兵は火砲でこれを撃つとすぐに延焼して撲救できなかった。父老が伝えたところによると、周世宗が京城を築く際に虎牢の土を取って堅密なこと鉄の如くにしたため、砲を受けてもただ凹むのみであったという。
- 大兵は壕外に城を築き囲むこと150里、城には乳口があり楼櫓もあり、壕は深さ丈余、幅もこれと同じ、約3、40歩ごとに一舗を置き、舗には百人ほどがこれを守った。当初、博索は門外に短牆を築き委曲陿隘(曲がりくねって狭い)で2、3人しか過ぎられぬようにさせ大兵が門を奪うことを防ごうとしていたが、攻められるに及んで諸将は夜に乗じて営を研(偵察)することを請うたが軍はすぐには出られなかった、出た時にはすでに北兵に覚られていた。後にまた夜に死士千人を募り城に穴を穿って壕から径ちに渡らせその砲座を焼かせ、城上に紅紙灯を懸けて応とし、灯が起これば約束通り壕を渡ろうとしたが、これもまた囲む者に覚られた。また紙鳶を放って文書をその上に置き北営に至れば断つ(切って落とす)ことでこれをもって俘われた者を誘おうとした。識者は「前日は紙灯、今日は紙鳶、宰相はこれで敵を退けようとしているのか、難しいことだ」と言った。右丞の舒嚕は「江水曲」なる歌を作らせ城上の人に静夜にこれを唱わせようとした。蓋し河朔には先にこの曲があり謳吟の思いを寄せていたのだが、その謬計はこの通りであった。
- 喀齊喀は先に鳳翔を守ったことで自ら誇っていたが、西北隅を守らせるとその地は攻めを受けることが最も急であり、喀齊喀はこれに当たると言語は失措し面には人の色がなかった。軍士はただ車駕がしばしば出て慰労したことにより人々が自ら激昂して争って効命しようとしたに過ぎない。攻城の具に「震天雷」と名づける火砲があり、鉄礶に薬を盛って火をもってこれを点じると砲が起こり火が発しその声は雷の如く百里の外まで聞こえた。焼く所は半畝の上に及び火点が甲鉄に着けば皆透る(貫通する)ほどであった。大兵はまた牛皮洞(牛皮を張った覆いの掩体壕)を作って直に城下まで至り、城を掘って龕(穴)を作って人を容れられるようにすれば城上ではどうにもできなくなる。人があってこれに献策し、鉄縄を用いて震天雷を懸けて城に沿って下し、掘っている所に至ると火が発し人と牛皮は皆碎迸して迹もなくなった。また飛火槍という薬を注いで火をもって発し人がすぐに前で焼くと10余歩まで焼くことができ、人はこれにも敢えて近づかなかった。大兵はただこの二物を畏れたという。
- 4月、攻めを罷めた、これに至ること16昼夜、内外の死者は百万を計った。大兵は下せないと知り謾に好語を作って「両国はすでに講和したはずなのに、なぜ相攻めるのか」と言い、朝廷もまたこれに応じた。翌日、戸部侍郎の楊居仁を宜秋門から出させ酒炙で師を犒わせた。ここに営幕は稍々外に遷り遂に兵を退いた。戊午、喀齊喀は大兵が退いたことをもって入賀を議した。諸相は皆それを望まなかったが、喀齊喀独り守城を己の功として持論すること甚だ力強く、令史の元好問を呼んで「攻めを罷めてすでに3日になるのに入賀しないのはなぜか、速やかに翰苑官を召して表を作らせよ」と述べた。好問は諸相に告げると権参政の内族色埒は「城下の盟は諸侯の恥とするところ、況や攻めを罷めたことを賀すべきことと言えようか」と述べた。喀齊喀は怒って「社稷は亡びず帝后は難を免れた、汝らはこれを喜ばしいと思わないのか」と述べた。翌日、近侍局直長の張天任が省に至り、好問がひそかに賀議のことを告げると、天任は「人は恥を知らないとはこのようなものか」と述べ、諸相に「京城が兵を受けたことを上は深く恥辱とされている、百官が入って賀するというのは実にあるのか」と語った。ちょうど学士の趙秉文が表を撰することを肯んじなかったため議は寝された。
- この月、尚書省が樞密院事を兼ねると、喀齊喀は樞密を罷められて兵柄を失い意は殊に楽しまなかった。院印を銷そうとしたが、諸相は院事はなお在り印には用いる時があるので毀すべきでないと言い、喀齊喀は怒ってその掾(属官)を笞そうとした。匿名書を御路に投げる者があり「副樞の喀齊喀・総帥の薩哈・参政の恩楚は皆国賊、朝廷が殺さないなら衆軍もまた殺すべきだ、国のために害を除け」とあった。衛士がこれを聞かせると、薩哈は薬を飲んで死に、恩楚は疾を称して出なかったが、喀齊喀ただ独り坦然として何事もないかのようであった。上もまた問うことなく、これより軍国の事は尽く喀齊喀が決するようになった。
- 当初、大兵が汴を囲んだ際、司諫の陳岢がしばしば疏を上げて得失を言いその論は時病に切中していたが、喀齊喀は大いに怒りこれを召して省に入れ、その名を呼んで責めて「お前は陳山可のつもりか、果たしてお前の言う通り大兵を退けられたなら、私は代々お前の奴となろう」と言った。聞く者は皆こっそりと嗤った、蓋し岢という字が二つに分かれることを知らなかったのである。天興元年(1232年)7月、権参知政事の色埒・恒山公の武仙が軍を合わせて汝州から入援した際、詔で喀齊喀を樞密使とし京城の軍1万5千を統べさせてこれに呼応させ、なお薩布にこれを助けさせた。8月己酉朔、近郊に駐まり益兵を候ってから中牟の古城に進屯すること凡そ3日、色埒の軍が潰えたと聞くとその夜に輜重を棄てて馳せ還った。黎明に鄭門に至り軍を聚めてから入った。
- 言う者は喀齊喀が始めは抗命して出ず、中頃は追逼されて進まず、終には軍を棄てて先に遁れ、軍資を棄てたのは勝計できないほどで、これを斬らなければ天下に謝することができないと言った。上はその死を貸して庶人となし、まもなくその家を籍して軍士に賜った。すでに廃されて汴中に居し常に鞅鞅として楽しまなかった。ちょうど大将の蘇布特が人を遣わしてこれを招くと、喀齊喀は装を治め行に赴こうとし、崔立が省に邀えて酒を酌んで餞送し且つ白金2百両を贐(餞別)として与えた。翌日、再び省に詣り、立とまさに対語している際、たまたま一人が帰徳から文書を持って至り、これを開いて視ると哀宗が喀齊喀に語る言葉を伝える行省の文であった。その言に「卿は朕の老臣であり、中間廃黜されはしたが未だかつて卿を忘れたことはない、今崔立はすでに変を起こしたが、卿の処には旧人がなお多い、もしよく反正すればお前を代々世襲の公相にしよう」とあった。立は怒って左右に叱してこれを獄に繋がせ、この日これを斬った。
史論
- 論に曰く、喀齊喀は初め西夏を攻めしばしば労効を著したが、要は諸将の延扎哈瑪爾らの功でもあった。すでに大任に当たると自ら誇伐(自慢)した。汴城の役では挙措が煩擾で、質を出す(曹王の出質)とすぐに賀を称することを図った、これはどうして国を体する誠心があると言えようか。中牟の潰えで衆怒がこれに帰したが、幸いに一死を逭れながらなお異図を懐き、ついに猜疑によって殞(死)した。天は蓋し崔立の手を借りたのであろう。