金史卷一百十四 列傳第五十二 錫黙愛實

京師困窮下の直諫

  • 錫黙愛実、字は正之、策論進士である。正大間、累官して翰林直学士兼左司郎中となった。天興元年(1232年)正月、大兵がまさに至ろうとしていると聞き、点検の瓜爾佳薩哈を総帥として歩騎3万を率いて河を巡渡させ、宿直将軍の内族長楽に近侍局使を権じてその軍行を監させたが、封丘に至って還り梁門から入った。樞密副使の喀齊喀がこれに遇い薩哈に笑って「私の言った通りだ、私のために主人を作ってくれ」と語った、蓋し世俗の酬謝の意である。翌日、大兵は遂に合囲した。朝廷はこれを問わなかった。ここで愛実は「薩哈は兵3万を統べ本来大兵が遠くから至って喘息がまだ収まらないうちに撃つことを図るはずだった。京を出てわずか数十里、一人にも会わないのにすでに畏縮して敢えて進まない、たとえ大兵に遇っても、その用命を肯じたであろうか。二人を斬って軍政を粛正することを乞う」と上言したが報われなかった。蓋し喀齊喀らは京師がこの一軍を頼りに命脈としているとして敢えてこれに出戦させず、ただ外議が閧然としているために暫くこれを出して応じたものであろう。
  • 衛紹・鎬・厲の二王の家属は皆兵で防護されており、しかも官を設けて提控させ巡警の厳しさは獄犴(牢獄)に過ぎるほどであった。ここに至り衛紹王の宅は40年、鎬・厲の宅は20年に及んでいた。正大間、朝臣がしばしばこれに及ぶ言をしたが報われなかった。愛実は「二族はすでに衰微し匹庶と異ならない、仮に不善をなそうとしても誰と共に悪をなせようか。男女の婚嫁は人の大欲である、幽囚されて世を終え永く伉儷(配偶)の望みがないなど、他人にすら忍びないことなのに、況や骨肉においてはなおさらだ」と上言した。哀宗はその言に感じて始めて自便を聴した。まもなく青城の難があった。
  • 愛実は時相がその人を得ていないことに憤り、しばしば数え上げて「平章の博索は固より権に市して恩に恵む者で、擊丸(球技)の他は百も一も能がない。丞相の薩布は菽麦を分けない(無能)とはいえ、これに更って材が乏しいという者もこの人には及ばない。参政兼樞密副使の特嘉喀齊喀は麤暴でただ一馬軍の材に止まるのに、将相の権を兼ねている。右丞の延扎舒嚕は相位に居ること既に7、8年になるが碌碌として補うところなく、ただ員数を備えるのみだ。患難の際にこの類に倚注(頼る)していては、中興を望んでも難しい」と語った。ここで舒嚕は罷相し、薩布は致仕を乞うたが、博索・喀齊喀は意に介さなかった。この年4月、京城の攻めが罷まり大兵は退いたが、まもなく唐慶を殺害したことにより和議は遂に絶えた。ここに再び民兵を簽して守禦に備えさせた。
  • 8月、京城の粟を括するため転運使の完顔珠赫・張俊民・伊喇克忠らに局を設けさせ、「推挙」を名目とした。珠赫は民を諭して「汝らは実の通りに推唱すべきだ、果たして一旦糧が尽きれば汝らの妻子を軍食とすることになるが、なお吝しむか」と言った。まもなく括粟の令は罷められ、再び進献をもってこれを取ることとした。前御史大夫の内族哈昭は再び進用を冀って「京城の括粟で百余万石を得られる」と建言し、朝廷はこれを信じ権参知政事として左丞の李蹊とその事を総べさせた。まず各家に自ら実(数量を申告)させ、壮者の存する石は3斗、幼者はその半分とし、なおその数を門首に書かせ、匿す者があれば升斗をもって罪に論じた。京城36坊は各々深刻(酷薄)な者を選んでこれを主らせた。
  • 内族の完顔玖珠はとりわけ酷暴で、ある寡婦2口の実豆6斗の中に蓬子が約3升入っているのを見つけると、玖珠は笑って「これで捉えた」と言い、捕らえて衆に令した。婦は泣いて訴え「妾の夫は兵で死に姑は老いて養う力がない、故に蓬粃を雑ぜて自ら食べたのです、決して軍儲として偽ろうとしたわけではありません、しかも3斗6升の余りに過ぎません」と述べたが従われず、ついに帳下で死んだ。京城はこれを聞いて股栗(震え上がる)し、その余りを尽く糞溷(肥溜め)の中に投げ捨てた。この事を李蹊に告げる者があり、蹊は頻蹙(顔をしかめる)して「参政に告げよ」と言った。参政とは即ち哈昭であった。哈昭は「人は言う『花は損なわれずに蜜もできた』と、私が思うに花が損なわれずどうして蜜ができようか、しかも京師は危急である、今、社稷を存させたいのか百姓を存させたいのか」と述べた。当時、皆敢えて言う者がなかったが、愛実は遂に上奏し大略、括粟を罷めれば虐政を仁政に改め怨気を和気に散じることができると述べたが、報われなかった。当時、括した粟は3万斛にも満たず、京城はますます蕭然となった。これより後、死者は相い枕(重なり合う)ようになり貧富とも束手して斃を待つのみとなった。上はこれを聞いて太倉の米を出させ粥を作って餓えた者に食べさせた。愛実はこれを聞いて「これを与えるくらいなら奪わない方がましだ」と嘆いた。
  • 奉御の博諾に「また近侍が朝政に干預している」と告げられたことから、愛実は上章して諫め「今、近侍の権があまりに重く、将相大臣も敢えてこれに対抗できません。自古、僕御の臣は供給・指使に過ぎず、名は僕臣であってもまた必ず正人を選揀します。今、賢否を論ぜず、ただ世冑あるいは吏員をもってこれに充てています、給使令の材で社稷の大計に預らせて、この輩が果たして何を知っているというのでしょうか」と述べた。章が上がると近侍数人が上前で泣いて訴え「愛実は臣らを奴隷とみなしている、至尊はどこにお置きになるのでしょうか」と言った。上はますます怒り有司に送られたが、近侍局副使の李大節が從容としてこれを開釈し、赦されて中京留守に外任した。後の消息は分からなくなった。
  • 哈昭は一名を永錫と言い、貞祐中、元帥左監軍として中都の援軍に失敗し、宣宗は官爵を削除し杖八十に処した。まもなく再び用いられ、4年(1216年)御史大夫として権尚書右丞・総兵陝西とした。哈昭は澠池に留まること数日、京兆に進んだが大兵はすでに至っており、哈昭は結局出兵せず遂に潼関を失った。有司は敵が至って出兵しなかった罪は斬に当たると議したが、諸皇族百余人が上章して救おうとし、上は「先に哈昭は中都の救援に至らず軍を潰した、宗廟山陵を失守させた罪は誅すべきであった、朕は特に寛貸してその命を全うさせ、まもなく重職に復した。今は陝西を鎮し犯すところはこの通りだ、国家の大法にどうして私することができようか」と述べ、遂に再び爵を奪って死を免じ除名した。ここに至って参知政事となった。性は詩詞を作ることを好み語は鄙俚であった、人はその語を採って戯笑の種とした。自ら括粟の榜文を草した際「雀に翅なくば飛ばず、蛇は頭なくば行かず」等の語があり、これがために作られた児掾吏(子供の使い走り)はこれを知りながら敢えて易えなかった。京城はこれを目して「雀兒参政」と呼んだ。哀宗はこれを用いながら悟らず、ついに敗事に至った。