金史卷一百十一 列傳第四十九 内族色埒

幼くして呼沙呼弾劾、鄧州入援の失

  • 内族色埒、南陽郡王の襄の子である。資性は詳雅で頗る書史を知り、5、6歳から宮に入って奉御に充てられ甚だ寵幸を得たので世に「自号奉御」と号された。宣宗が大統を承けた際、呼沙呼が跋扈していたが、色埒はなお髫齓(幼児)であった時、かつて涕泣して跪き帝の膝を抱いて「願わくは早く権臣を誅して王室を靖めよ」と説き、帝は急いで左右を顧みてその口を掩わせた。これにより帝は甚だこれを器重した。後に提点近侍局から都点検に遷った。天興元年(1232年)、汴京が囲まれると、哀宗は色埒に権参知政事として鄧州で行省事をさせた。ちょうど武仙が兵を引いて入援した際、色埒は諸軍を率いて汝州を発し密県を過ぎ大元兵に遇い、武仙が澗を阻む策を用いなかったことにより京水で敗績した(武仙伝に詳しい)。中京留守元帥左監軍の任守真はこれに死し、皇帝はこれを聞いて色埒の行省の職を罷め中京を守らせることとした。
  • まもなく大兵が中京を囲んで下せず、崔立が人を遣わして色埒の子を中京城下で監禁し降を招かせたが、色埒は顧みずこれを射させた。まもなく崔立が既に汴京をもって帰順したことを知り、病数日にして死んだ。当初、色埒が武仙らの軍と共に入援した際、色埒は仙と議論が合わず、仙は色埒がちょうど君の寵を得ていたためこれをよく仮借していた。色埒は仙に本来入援の意がないと考え、ただ朝廷が一参政を遣わして兵を召しているためやむを得ず行っているに過ぎないと言った。しかし仙は兵を知り頗る持重を事としており、色埒は入京を急いで仙の策に従わなかった。ここで左右司員外郎の王渥は色埒に「武仙は大小数百戦を経ており少なくない、兵事は共に議すべきです」と勧めたところ、色埒は渥が仙と謀があるのではないかと疑いほとんど斬るところであったが、渥は自ら内に愧じるところがないため懼れなかった。まもなく色埒は果たして敗れ、渥は陣に殁した。
  • 渥、字は仲澤、後に名を仲澤とした。太原の人。性は明俊不羈、博学善談論、尺牘・字画は清美で晋人の風があった。若くして太学に游び詞賦に長じ、興定2年(1218年)進士に及第した。時の帥の鄂屯邦献・完顔色埒黙に知られたため多く兵の間にあった。後に寧陵令に辟召され治蹟があり、尚書省令史に入り宋への使いに因り揚州に至り応対が敏給で宋人に重んじられた。還ると太学助教となり、樞密院経歴官に転じ、まもなく右司都事に遷り稍見信用され、色埒が鄧州に住むに及び渥を左右司員外郎とし従事させた。

史論

  • 賛に曰く、色埒は夙慧で権奸を誅すよう請い主威を立てようとした、甘羅・辟彊のような早熟の風があった、いわゆる茂良(優れた才)は必ずしも父祖に由らないという者である。中京の囲みで崔立がその子を脅して降を招かせようとしたが、顧みずすぐに射させたのは橋玄(後漢の忠臣、子を人質に取られても討伐を命じた)にどうして愧じることがあろうか。武仙の言に従わなかったことで敗れたことのようなことに至っては、これは思うに時人が王仲澤(渥)の死を惜しんでこう言ったものであろう、仙に入援の意がなかったというのは誣ではない。