洛陽放棄と蔡州陥落
- 烏凌阿呼図。開興元年(1232年)正月戊子、北兵は河中の一軍をもって洛陽の東40里の白坡から河を渡った。白坡は旧河清県で、河はもと石底で歳々旱すれば水は尋丈(浅い水位)にも及ばなかった。国初、3千騎がこの路から汴に趨いたことがあり、これより後、県は廃されて鎮となった。宣宗の南遷後、河防は上下千里であり常にこの路を憂いとし、毎冬、洛陽の一軍にこれを戍らせていた。河中が破れた際、この路が徒渉できると言う者があり、まもなく果たしてその通りとなった。北兵が既に渡り、河陰の官船を奪って諸軍を済らせた際、呼図は破虜都尉として潼関を戍っており、去冬12月に旨を被って入援し偃師に至り白坡の径渡の報を聞き、直ちに少室に趨き夜に少林寺に至った。この時、登封県の官民はすでに太平頂の御寨に遷っていたが、翌日呼図は人を遣わして県官に「我が軍中の家属・輜重をこの山に留めたい」と紿り、すぐに兵を率いて汴京に赴くと言った、これによって県官を摂して下山させ道を先導させ、一軍がこれに随って上った。山は険固で糧も充足していたため、遂に久しく住む意を持った。
- まもなく軍を縦って山を下り居民を刼掠すること盗賊よりも甚だしく、旁近1、2百里は害を被らないところがなかった。呼図は変を畏れ知っても禁じず、また刼した牛畜・糧糗もこれを分けて自らのものとした。7月、恒山公の武仙・参政の色埒両行省の軍が登封城南の大林下に屯し、人を遣わして呼図に京に入るよう約したが、呼図は百計をもって下りることを肯じなかった。やむなくその軍4千を分けて色埒と共に東に赴かせた。8月3日、両行省軍が中牟で潰えると、呼図は狼狽して山に上り、残卒は3、20人、外の偏裨は一人も至らなかった。12月、色埒は自ら山に留まり、行省が中京に兵を徴し洛陽と共に保つよう命じたが、また遅延して行かず、色埒は檄を送って「もし以前のように逗遛すれば自ずと典憲がある、我は汝を容れない」と言い、呼図は畏れて妻子及び軍を挈げて中京に赴き、その半分を山上に留めて巣穴とした。
- 天興2年(1233年)3月、色埒が病没しつつ呼図に留言し行省事を代行させた。6月、敵勢はますます重くなり、強伸がまさに力を尽くして戦禦していた際、呼図はすぐに軽騎を領し妻子を挈げて城を棄て南奔し、遂に中京を失った。当初、呼図は太平頂において既に顧望して進まなかったが、また人の議を恐れ、榜を出して「救駕軍」を募る者を求め「一旅の衆をもって国家を興復できる、諸人で奮発して国に許し身を捐てられる者があれば、大事を済すことにならないだろうか」と言った。これにより不逞の徒が募集に応じて出て、澤の人の緝麻觜・武録事ら20余人を得て、京に赴くよう促した。行きて盧店に及ぶとすぐに刼械(強盗行為)を行い、杖200に処すると人は皆こっそりと嗤った。まもなく蔡州に走り、皇帝は召見して慰問したが心中では薄んじていた。
- ちょうど宋人が唐州を攻め、元帥の烏庫哩黒漢がしばしば人を遣わして急を告げたため、呼図に忠孝軍百人を領させ西山の招撫の烏庫哩和卓・黄巴爾らの軍を徴発して赴かせることを命じた。呼図は兵を率いて唐に至ったが宋人は歛避しその半分を城に入れて挟撃したため、呼図は大敗し僅かに30騎を残して還り、和卓はこれに死んだ。まもなく呼図は殿前都点検とされ権参政を罷められた。大兵が蔡州を囲んで軍を分けて防守した際、呼図は西面を守った。11月、呼図の奴がその金牌を竊んで夜に城を縋って降った。朝士は喧しく呼図がこれを縦し将来異志ある行動をしようとしているのだと言い、呼図はこれを聞き内心自ら不安となり軍職の解免を乞うた。皇帝は慰めて「卿の父子昆弟は皆帥臣となって恩を受けたことは薄くない、どうして肯えて降ろうか、しかも卿は先に洛陽にありながらすぐに降らず千里遠くから来て蔡で降るなど、それが人情であろうか。卿はその奴を太だ察しなかっただけで、しかも衣食を常に給していなかったのだから、これは往いて温飽を求めただけであろう、卿は何を慊ることがあろうか」と述べ饌を賜ってその心を安んじた。当初、呼図は機政を罷められて頗る怨言があり、左右が皇帝に呼図を誅すよう勧めたが皇帝は聴かず、西城を守らせても尚快々として楽しまなかったが、ここに至って初めて恩に感じ他念がなくなった。
- まもなく総帥の富珠哩羅索と呼図が皆権参政とされ、羅索は右丞の仲徳と共事し呼図は防守を以前通りにした。また都尉の承麟を東面元帥権総帥とした。先に東城を攻めるにあたり羅索は機に随って備禦していたが、2日して南城の攻めに移り烏庫哩鎬がこれに易わり、砲撃で城が数度倒れそうになると右丞仲徳が軍を率いて救援に赴きこれによって攻めが罷まった。まもなく四面から敵を受け仲徳は独りで援じるのが難しくなり承麟を薦めて羅索に代えて東面とし羅索と共に救応させるよう乞うた。当初、呼図は外城を失って頗る慙恨し「力小で衆に令せない」と声言していたが、仲徳もまたこれを薦めたため、この命があった。蔡城が破れると呼図は汝水に投じて死んだ。
史論
- 賛に曰く、薩哈連は本来佞をもって進んだ、烏凌阿呼図は戦陣に武を発揮できないのに孤城を付されて捍禦を望まれた、これでどうして知人と言えようか。強伸は一射粮卒に過ぎないが、援ぎを兵に授けられると変に応じ勝を制すること遠く二人(薩哈連・呼図)に過ぎ、力尽きて斃れてもなお烈丈夫の風があった。古人の言に「四郊多壘(戦乱多発の地)」を挙げた士を将とするとあるが、もし金運が未だ去っていなければ、伸は功名を建てるに足りたであろう。