金史卷一百十一 列傳第四十九 赫舍哩約赫德

淮泗の戦功と専横な死

  • 赫舍哩約赫徳、一名は志本、親軍から出た。人となり剛悍で善戦した。貞祐間、布薩安貞が山東路宣撫使となり約赫徳を軍中提控とした。この時、山東に群盗が蜂起し安貞は約赫徳を遣わして巨蒙等四堌を破らせ、また馬耳山砦を破って劉二祖の賊党4千余人を殺し、8千人が降り、その偽宣差程寛の招軍大使程福も降し、脅従の民3万余人が降った。貞祐4年(1216年)6月、積功により攔通渡経略使に累遷し、10月元帥左都監、12月山東西路兵馬都総管府事兼武寧軍節度使徐州管内観察使を行った。
  • 興定2年(1218年)正月、宋兵万余が泗州を攻めた際、約赫徳は援に赴き臨淮に至り宋人300に遭いこれをほとんど掩殺しつくした。泗州に及ぶと宋兵8千が甚だ急に囲んでいたため、衆を督して進戦し大いにこれを破り溺水死者は甚だ多く、馬300余匹を獲て50余人を俘えた。また盱眙を囲んだが宋人は門を閉じて堅守し敢えて出ず、騎兵を分けて境内を掠め、時に贏卒を城に薄らせて誘い、宋人が騎数百を出して拒んだ際、約赫徳は兵を麾いて偽って北を装い伏兵を発してこれを撃ち首200を斬った。宋人は再び歩騎8千を出して援じたので合撃してこれを敗り、太尉一人を殺し首300を斬った。まもなく偵者が青平の宋兵が甚だ多く盱眙を救おうとしていると告げたので約赫徳は兵を移してこれに赴くと、宋兵の歩騎7千が突出し兵少なく退いたが旋って軽騎でその後を扼した。初め逗遛して戦わずこれを縦って東南に走らせ諸河に薄らせ首千余を斬り溺死者は無数、馬牛数百・甲仗千を計り獲た。師が還る途中、連塘村で宋兵2千に遇い首千余級を斬り50人を俘え馬35匹を獲た。宣宗はその功により金帯一を賜った。
  • 3年(1219年)正月、濠州の香山村で宋人を敗り、2月にも滁州で敗り、小江寨を抜き統制の王大蓬らを殺し3万を斬り万余人を俘え、輔嘉平山寨を抜いて数千を斬り500余人を俘え馬牛数百・粮万斛を獲た。3月、提控の鄂屯斡里雅布が上津県で宋人を大敗させ兵が還る途中濠州に至ると宋人が兵8千で拒戦したが約赫徳は迎撃してこれを敗り馬百余匹を獲た。5年(1221年)正月、皇帝は紅襖賊が宋を助けて害となり辺兵が久しく労苦していることにより約赫徳に宋人に書を送って戦を求めさせ、その略には「宋と我が国は百年通好してきたが、頃年以来我が叛亡を納れ我が貢幣を絶ち、また紅襖賊を遣わして間に乗じて辺疆に跳梁させ吾が民に休息を得させていない、彼国がもしこの輩を恃みにできると思うならば全軍で来て一決勝負を請う、果たして我が鋒に当たれるならば沿辺の城邑を献上しよう、当たれないと分かるならば安分して境を保つべきで、どうして狐号鼠竊(狐や鼠のように陰でこそこそすること)で陰に乗じ夜を伺ってこのような態をなす必要があろうか、しかも彼の将帥もまた鉞を受けて総戎する身でありながら敵に臨めば風を望んで遠く逃げ、攻められれば壘を閉じて深く蔵れ、我が兵が還ってから初めて姿を現し武夫や小民・気を尚ぶ女子・志ある者にすら及ばないのは、彼国のために恥じるべきである」と述べた。
  • 先に宋将の時青が泗州西城を襲破していたが、2月、約赫徳は兵を率いてこれを取ろうとし、宋兵は拒守すること甚だ力強かったが、死士を募って梯衝を並び進めさせ大いに宋兵を敗り、時青が城に乗って指麾したところ矢がその目に中り遂に衆を挙げて南奔した。ここで兵を陳ねて走路を横絶して撃つと宋兵は大潰し、遂に泗州西城を復した。3月、再び兵を出して宋境を報い団山・賈家等の諸寨を破って濠州に進逼し、約赫徳は州人が出て拒むことを慮り躬ら勁兵を率いてこれを逆え、城東で邏騎200に遭いこれを撃殺すること過半、たまたま偵者が前路は芻粮が甚だ艱難と言ったため西に定遠を掠め渦口を経て還った。9月、また兵を率いて淮を渡り団山で宋兵を大破した。詔で還官・昇職を差等をもって授けられた。
  • 元光元年(1222年)5月、京東便宜総帥兼行戸工部事となった。皇帝は宰臣に「約赫徳の性は剛で人は皆これを畏れる、行部を委ねれば弁じられないものはない、下を御することにもまた頗る術がある、提控に和爾察という者があり、渠(約赫徳)は厚くこれを待ち常に器を同じくして食い、その人は感奮してついに戦死した」と述べると、英王の守純は「凡そ将帥たる者は人材を駕馭するに皆このようであるべきだ」と述べ、皇帝は然りとした。まもなく宋人3千が密かに淮を渡り聊林に至って隄柳を悉く伐って汴水を塞ぎ吾が粮道を断とうとしたため、約赫徳は精甲千余を遣わしてこれを破り、その舟及び渡った者700人を獲、汴流はこれにより復び通じた。2年(1223年)4月、上言して「賞罰は国の大信、帝王が善を勧め悪を懲らす所以である、その令は一たび出れば中変すべきでない、以前中軍で戦殁した者は皆その家に廩給が施され恩は至って厚い。臣が近ごろ宿州に抵り、例として楮幣で折支し往々にして給されず失所に至っていることを知った、これは殆ど有司の出納が吝であり朝廷の徳意を奉行できていない過失である、自今、本色(実物)で支給し贍済させることを願う」と述べ、儲蓄が方に艱難な中、詔で有司にその半分を給させた。
  • 紅襖賊が寿・潁を寇して数日剽掠して去った際、約赫徳はこれを聞いて兵を率いて淮を渡り、朱村・孝義村に賊各々数百があると偵知して兵を分けて攻め連ねて両栅を破り、その村塢数十を焼いて還る途中で宋兵数百に遭い淮南岸に陣していたのをその半分を撃殺した。まもなく兵千余が東南より来て追撃されたがこれをまた大敗させた。当初、納哈塔陸格が元帥蒙古綱を殺し邳州に拠って叛いた。10月、約赫徳がこれを囲んでその楼櫓を焼き首百余を斬った。ここで宋の鈐轄高顕・統制侯進・正将陳栄らは守れないことを知り共に陸格を誅しその首を城を縋って降した。陸格が既に誅されても衆はなお拒守していたが、まさに督兵して進攻すると宋の総領劉斌・提控黄温らが乱首の顔俊・戚誼・完顔奇格を縛って献じ、また提控金山巴達の首を梟して遣わしその校の馬俊・呉珪に来献させた。まもなく紅襖の監軍徐福・統制王喜らもまたその総領孫成・総押徐琦を遣わして納款し、劉斌らは遂に軍民を率いて出降した。約赫徳は入城してその衆を撫慰し各々安集させ、また紅襖統制15人・将官訓練139人を招獲した。11月、人を遣わして報告し陸格の首を函に納めて献上した。宣宗は大いに喜び約赫徳の官一階を進め金3百両・内府重幣十端を賜り、将士は遷賞が差等をもって行われた。
  • 正大3年(1226年)11月、北兵が突如西夏に入り中興府を急激に攻めた際、陝西行省及び陝州・霊宝の二総帥額爾克・約赫徳を召してこれを議し、詔で両省に「もし辺方に警あれば内地が憂うべきである、もし早く図らなければ噬臍(後悔しても及ばぬこと)となる恐れがある、旦夕の事勢は同じでないので随機応変すべきである、もし逐一奏請していては事機を失う恐れがあるので、皆行省の従宜規画に任せる」と述べた。4年(1227年)、約赫徳は再び平陽を取り馬3千を獲た。この歳、大兵はすでに夏国を滅ぼし陝西に進攻し徳順・秦州・清水等の城を攻め、遂に鳳翔から京兆に入り関中は大いに震えた。5年(1228年)、慶陽を囲んだ。6年(1229年)10月、皇帝は陝省に羊酒及び幣を慶陽に送って北帥に犒わせ緩師の計とし、北中もまた翁鄂羅らを遣わして往来して和議を議した。まもなく翁鄂羅を小使として直ちに行省に来させ、12月、詔で約赫徳と副樞の布哈を権簽樞密院事とし内族額爾克に兵を将いて慶陽を救わせた。7年(1230年)正月、大昌原で戦い慶陽の囲みが解けた。詔で約赫徳を左副帥とし京兆に屯させた。
  • 当初、翁鄂羅が来て行省したが、内密の事機が泄れることを恐れこれを留め、布哈らが慶陽の囲みを解いた後、志気が驕満して遂にこれを還らせようとすると、使者に「我はすでに軍馬を準備した、戦えるなら来い」と語る甚だ不遜な言葉を述べさせ、翁鄂羅がこの言葉を上聞したことに太宗皇帝(オゴデイ)は大いに怒り、応州に至って9日、天を拝して即座に自ら大兵を統べて陝西に入った。8年(1231年)、居民を河南に遷し京兆を棄てて東還した。5月、閿郷に至って寒疾を患い汗が出ず死んだ。この歳9月、国信使内族の垂慶が北使から還って初めて約赫徳の不遜が激怒を招いたことを知り、しかも慶(翁鄂羅)らが傍らにあった時の心魄震蕩は殆ど忍びて聞くべからざるものであったと言い、当時の人は「帥臣が書を知らず国を誤ったのはかくの如くか」と言った。約赫徳は人となり鷙狠狼戻で小人を結ぶことを好み朝廷の節制を聴かなかった。かつて朝に入って省堂に詣り宰執を詆毀したが宰執も敢えて言わず、皇帝もその東方の鎮を倚み優容していた。とりわけ文士を喜ばず僚属で長裾(長い衣裾=文士の装束)の者があれば輒く刀でこれを截った。また使者を凌侮することを喜び、凡そ朝廷が遣わす使者が来ればこれを酒食で困らせ、あるいは飲めないことを口実にすれば併せて食を給さず餓えさせて去らせた。
  • 司農少卿の張用章が行戸部として過宿した際、約赫徳は酒を飲ませようとし張が寒疾により辞すと、約赫徳は笑って「これは治しやすい」と述べ左右に艾を持って来させ、張を床に臥せて数十壮も灸を据えた。また銀符を妓に佩わせしばしば州郡に赴いて賄賂を取り、州将の妻は皆遠く迎え「省差行首」と号して厚くこれに賄賂を贈った。御史の康錫が章を上げてこれを劾し「朝廷がこれを容れるのは、まさにこれを害することになる、この人を保全しようとするならば裁制を加えるべきだ」と述べたが、朝廷は結局その罪を治めなかった。約赫徳はしばしば宋兵を破って威が淮泗に震え、鼓椎で人を撃つことを好み世に「盧鼓椎」と呼ばれ、その名は児の泣くのを怖れさせるほどで、大概「呼麻胡」(民話の妖怪)と言うようなものであった。子の阿里哈という者があり、世に「小鼓椎」と目された。かつて元帥として哀宗に従い帰徳に至り、富察官努と共に乱を作して伏誅された。
  • 康錫、字は伯禄、趙州の人。至寧元年(1213年)進士。正大初、省掾から御史を拝命し、侯摯・師安石を非相材と劾し、近侍局の宗室薩哈連の声勢が熏灼で請託が公行していることを非とし禁近に置くべきでないと言い、時論はこれを是とした。右司都事、京南路司農丞に転じ河中路治中となり、河中が破れると帥に従って軍を率いて南奔し河を済る際、船が敗れて死んだ。人となりは気質重厚で公家の事は知って為さないことがなく、雷淵・冀禹錫と齊名した。

史論

  • 賛に曰く、金は呼沙呼・髙琪が事を用いてより風俗は一変した。朝廷は寛厚の政を矯め苛察を好んだが、それが果たされずかえって姑息を成した。将帥は儒雅の風を鄙んで粗豪を好んだが、その用いる人材が宜しきを得なければ結局は跋扈に至る。約赫徳は戦勝攻取して威は江淮に行われたが、矜暴不法で王人(朝廷の使者)を肆に侮った。これでどうして制御できよう。陝を棄てて帰り道途で死んだのはほとんどその幸いであったろうか。その子が悪しき前例に倣ってついに大戮に陥ったことをもって、君子は康錫の言が過ぎたものではなかったことを知るのである。