剛直な検察と急死
- 雷淵、字は希顔、一字は季黙、應州渾源の人。父の思は名進士で官は同知北京転運使に至り易を注し世に行われた。淵は庶出で最も年幼く諸兄に歯(同列に扱われる)せず、父の没後、家に安んじることができず発憤して太学に入り、衣は弊れ履は穿ち坐榻に席なくても自ら露を跣むこと恒として兀坐し読書し、賓客を迎送せず、人は皆倨慢だと思ったが、その友の商衡はいつもこれを弁じてやり周恤していた。後に李之純に従って游んだことで名を知られるようになった。至寧元年(1213年)、詞賦進士甲科に及第し、涇州録事に調され、高庭玉の獄を起こし死にほとんど至った。後に東平に改まり、河朔の重兵の在るところで驕将悍卒が外敵を恃みとして重んじていたが、行台以下は皆これを摩撫していたのに、淵は軍中に出入りして偃然として屈さず、数月を経ずして閭巷の間に淵の像を画く者が多く、大将でさえ新進の書生として遇することを敢えてしなかった。
- まもなく東阿令に遷り徐州観察判官に転じた。興定末、英王府文学兼記室参軍に召され、応奉翰林文字に転じ、監察御史を拝命し五事を言い称旨した。また弾劾は権貴を避けず、郡邑を巡行して至る所で威譽があった。奸豪不法の者を立ちどころに笞殺し、蔡州に至って杖殺すること500人、時に「雷半千」と号された。この事に座して人に訟えられ罷められた。久しくして宰相侯摯の薦めにより起用され太学博士、南京転運司戸籍判官となり、翰林修撰に遷り、一夕にして暴卒した。享年48。正大庚寅(7年、1230年)、倒回谷の役に際し、淵はかつて上書して朝臣が孤注(賭けに全てを注ぐこと)を破ることを論じ、その論拠は深切で灼然として見やすかったが、用兵を主る者はこれを沮み策は結局行われなかった。
- 人となりは駆幹雄偉、髯は張って口は哆く、顔は渥丹(赤く艶やか)、眼は洋を望むが如く、不平に遇えば疾悪の気が顔間に現れ、あるいは歯を嚼んで大罵してやまなかったが、これを痛く懲創しても本質は変えられなかった。文章・詩を作るに新竒を喜び善く結交し、当塗貴要(権力者)から布衣名士に至るまで往来しないものはなかった。京師に居ると賓客が門を踵ぎ去ることがなく、家に余貲もないのに賓客を待つことは甚だ豊腆であった。官に莅んで名を立てることを喜び、初め及第すると遂平県事を摂し、年少く気鋭で豪右を繋ぎ姦伏を発き一邑は大いに震え神明と称された。かつて州の魁吏を擅に笞したところ、州が檄でこれを召しても応じず罷められた。後は凡そ一職に居るたびに輒く震耀させたが、これもまたこの故によって不達(大成しない)となった。