金史卷一百十 列傳第四十八 李獻甫

夏との外交交渉に功

  • 李獻甫、字は欽用、献能の従弟である。書伝を博通し特に左氏及び地理の学に精しく、人となりは幹局があり心の到る所は絶えて人よりはるかに優れていた、故に時人はその「精神満腹」を称えた。興定5年(1221年)進士に及第し、咸陽簿を歴任し行台令史に辟召された。正大初、夏の使者が来て和を請い、朝廷は翰林待制の馮延登を遣わして議させ、この時、獻甫は書表官として随行した。夏の使者には口辯があり延登はこれを折することができず、往復数日決せず夏の使者が歳幣を言うに至り、獻甫は平静でいられず傍らから進んで「夏国と我とは百年の和好であり、今君臣の名を易えて兄弟の国となったとはいえ、兄に幣を輸させることにどうして拠りがあろうか」と述べた。使者は「兄弟のことはさておくとしても、宋は我が国に幣二十五万匹を歳輸している、典故は具に在る、君は独り知らないのか、金朝は必ず旧好を修めようとするならばこの例でなければならない」と述べると、獻甫は色を作して「使者よ、なおこれを言うに忍びるのか、宋は歳幣をもって君の家に餌して姓を賜ったのに、岸然として君父をもって自居している、夏国の君臣は誰一人悟らないのか、誠に使者はこれを諱として言うべきと思っていたのに、今公はこれを言う、使者が果たしてこの議を主として賜姓の例に従うなら、弊邑(我が国)はたとえ歳に五十万を捐てても、獻甫は身をもってこれに当たることを請う」と述べ、夏使は言葉に窮まり和議はここに定まった。後に朝廷はその功を録し慶陽総帥府経歴官を授けた。まもなく長安令に辟召され、京兆行台の在るところは供億が甚だ煩わしかったが、獻甫はこれを常に余裕があるようにこなし、県民はこれに頼って安んじた。尚書省令史に入り、天興元年(1232年)、行六部員外郎として守備の策に充てられ、時相はその功をもって鎮南軍節度副使兼右警巡使に遷った。蔡州の難に死んだ。享年40。所著の文章「天倪集」と号するものが汴京に留まったが、獻甫が死んで家もまた破れた。同年の華陰王元礼がこれを購い得て世に伝えた。