金史卷一百二 列傳第四十 必喇阿嚕岱

段階

  • 貞祐初め寧化州刺史から真定府同知・河北大名宣撫副使、贊皇の保全に功を挙げ元帥左都監行元帥府事に至る。義軍の三等区分制度に「編成変更は却って害となる」と反対し、その慎重論が容れられた。州県の防衛整備(守れる城の維持、守れぬ地の民徙)を実施、澤州の孟州編入を昭義軍への復帰に戻すべきと主張し実現。
  • 潼関失陥後、河北の防衛戦略(潞州帥府の重要性)を上奏、澠池で右副元帥富察伊爾必斯の敗走に巻き込まれ負傷しつつも潰兵を収集。興定元年(1217年)簽樞密院事から元帥左監軍兼山東路統軍使、益都府知事、参知政事に至り、潞州の再建に功があった郭文振を登用したが、後任の張開が文振と不和になり潞州の防衛が揺らいだ。

史論

  • 貞祐の時、布薩安貞は山東を定め、布薩端は陝西を鎮め、胥鼎は河東を統制し、侯摯は趙魏を経営した――その施策には見るべきものがあった。田琢は青齊を、完顔弼は東平を、必喇阿嚕岱は上党を守り、皆功があった。しかし高琪は功を忌み、汝礪は保身に汲々とし、西は夏に釁を啓き南は宋兵を挑発した。宣宗の道謀(衆議に頼る政)は煦煦として慈とし、皦皦として明とし、孑孑として強とするのみであった。やがて潼関が破れ崤澠が喪敗、汴州の城門が月余も開かず、高琪はなお陴を増し隍を浚え御寨を繕って逃死の計を図るばかり。かくして田琢は益都を去り青齊は裂かれ、蒙古綱は東平を去り兗魯は散り、布薩安貞は死して南伐は功を失った。天道とはいえこれもまた人事によるところが大きい。これ以後については語るに足りない。