段階
- 咸平府明安人、承安五年(1200年)進士、貞祐初め西山の兵民招集を自ら願い出て功を挙げた。太子左諭徳、順州刺史、大興府知事同知を経て河間府知事・河北東路宣撫使、山東路統軍使兼益都府知事を歴任。楊安兒残党の恩赦を実施、興定元年(1217年)東平府知事、右副元帥として尚書省を代行。
- 濟南の統属変更(東平から離れ独立管轄化)、恩州武城県艾家凹などの水濼を利用した防衛拠点構築、義軍の階層制度整備を提言。張林(張大刀)の反乱を鎮圧(王庭玉の指揮による大勝、張林生擒)したが張林は許されて萊州兵馬鈐轄となった後、山東不利の情勢で宋に降った。
- 興定五年(1221年)東平解囲、恩赦を実施。将士(庭玉・燕寧ら)の功を評価し遷賞、燕寧戦死後の後継人事(孫邦佐招撫使、洪果烏頁総領副使)も裁量で実施。東平放棄・河南移軍の議論では御史大夫赫舎哩呼実黙らが反対(「東平は大河の藩籬」)したが、樞密院は綱の内徙を許し山東の情勢は大きく後退した。
- 邳州へ移り経略していたが、興定末、宿州の重歛による民の離反、佃戸による暴力事件への対処を提言。碭山の反乱鎮圧を主導するも、元光二年(1223年)邳州従宜経略使納哈塔祿格らに殺害された。李全招撫の試みも道半ばで頓挫し、最終的に祿格も内応を疑われ討たれた。