段階
- 蓋州明安人、護衛から丞相襄の辺境戍守に従い功最。深州刺史、泰和六年(1206年)完顔匡の襄陽攻めに従軍し功を積む。大安三年(1211年)会河の敗戦で負傷しつつも押軍千戸の助けで免れた。東京陥落時、元帥左監軍として遼東防衛の増兵を進言、衞紹王に「東北路を憂うるのに京師の急を語るのか」と叱責されたが「皇后の親姻を恃みにすべきでない」と反論し左遷された。
- 貞祐初め召還され真定へ、元帥左都監として賞罰の徹底・逃亡兵処罰・城邑防衛の連携・軍器の禁令緩和など多くの提言を行った。皇太子の中都留守の是非、将帥の権限問題(生殺権の中央集中への懸念)、瑞州軍の信頼性への懸念なども上奏した。京兆兵馬都総管、陝西路統軍使を経て東平府知事・山東西路宣撫副使として劉二祖残党の孫邦佐・張汝楫の招降に成功(後に汝楫が再叛したため伏兵で誅殺)。
- 宣撫使・密国公に至り、上書で驅丁監戸の軍編入、武衞軍の家族優遇、老病官吏の淘汰、賦役の公平化などを提言。大元軍による東平包囲を百計凌いで解囲に成功した。同年五月、腦に疽を発し薨去。書を好み文士との交遊を楽しみ、東平の治世は愛民省費で軍民訴訟が少ない古の良将の風があったと評される。