段階
- 字は器之、蔚州定安の人。明昌五年(1194年)進士、貞祐二年(1214年)中都包囲時、間道を経て山西で義勇兵を招集。𢎞州刺史魏用との私怨から暗殺未遂を辛くも回避、用の反乱を鎮圧。丞相承暉は「田琢は実に軍民の心を得ており山西の利害に通じている」と推挙し留任を実現させた。
- 蔚州で兵二万を募集、後の敗戦(三万余の散亡兵)を経て中山界に屯駐、西京から蕩析した百姓を河南へ移住させる策を進言し実現。𢎞州蔚州の民を招撫し軍として編成、女直系混成軍の統合維持を主張し河北西路宣撫副使に至った。濬州を巡る死守と撤退の意見が二転三転し宰臣に弾劾されたが宣宗は不問とした。
- 屯田策として趙充国・諸葛亮・黄霸・虞詡の故事を引き、農桑振興による富国強兵を説いた長大な上奏を行った。興定年間、山東東路転運使、益都府知事として李旺・張聚・李全ら反乱勢力の討伐に功を挙げた諸将(張林・珠格罕都・烏雅烏登福など)の遷賞を承制で実施。沂州・淄州の防衛でも部将を的確に用いた。
- 治中張林が兇険不逞で琢と対立し、田琢が徴求過度で衆心を失ったことに乗じて反乱を起こし、琢は敗走の末、章丘で背に疽を発し卒去した。