段階
- 大臣子として奉御、父揆は尚韓国公主。鄭王永蹈の同母妹の縁で永蹈誅殺時に一時罷免されたが復帰。駙馬都尉として邢国長公主を娶り額特赫格们明安を襲う。同知定海軍節度使事などを歴任、元帥左都監に至る。貞祐二年(1214年)河北諸州(真定・大名・東平など)の宣撫を担当、山東路統軍安撫使に任じられた。
- 山東の反乱首謀者楊安兒(もと鞍材売り)の討伐を担当。安兒は「天順」と改元し僭号を称え、萊州・登州・寧海・膠西など各地を席巻したが、安貞は昌邑・辛河・萊州での連戦で撃破し、萊州奪回作戦(黥卒による内応工作)で徐汝賢を斬り安兒を敗走させた。安兒は海上逃亡中に溺死。耿格は投降後に処刑、劉二祖・張汝楫らの残党も馬耳山・大沬堌で討伐された。
- 樞密副使に転じ、興定二年(1218年)郝定の反乱も鎮圧(殺九万人・降三万余)。紅襖賊(李全・国用安・時青ら)の跳梁が続く中、興定三年(1219年)左副元帥として宋伐の詔を受け、安豊で宋兵を撃退、大江まで進んだが班師。淝水の戦功評価(呼喇勒の功第一)を巡る議論で行賞の制度上の限界を訴えた。
- 興定五年(1221年)再度の伐宋で息州から出撃、黄土関・梅林関・麻城県・黄州・靳州を攻略、多数の宋兵を殺獲したが宋の壮士は釈放する寛容策を用いた。宣宗は「この者たちを南京近くに置くべきか」と懸念を示した。同年、謀叛の疑いをかけられ、宣宗は当初「飾詞不実」と疑ったが再調査の末、安貞と二子は処刑された(祖忠義・父揆の大功により兄弟の縁坐は免除)。詔文には「三世将たること道家の忌むところ」との批判が含まれる。
- 蘄州で獲得した宋宗室を殺さず献上した事が罪とされ、憂讒による賄賂が仇となった。関連事件として蘄州獲得金帛の隠匿事件で李特立らが処分された。