段階
- 河北西路明安人、近侍局から泰和四年(1204年)本局提点、通州漕河の測量に功。泰和六年(1206年)伐宋で完顔匡配下の先鋒都統として棗陽を攻略、赤岸で襄漢路を断ち随州を攻略。汝州襄城県の許州編入を提案し採用された。
- 衞紹王即位後、李新喜との題品諸王事件で連座し除名、後に保安州刺史として復帰。貞祐二年(1214年)平州保全の功で進官五階、宣宗遷汴に伴い各地の留守・宣撫使を歴任。四年(1216年)元帥右監軍兼陝西統軍使として夏人を安塞堡・鄜州で撃退、興定元年(1217年)宋兵を泥河湾・石濠村・樊城で撃破。鎮南集慶軍節度使で卒去。
史論
- 承暉が中都を守ること一年、社稷と存亡を共にし、臨終に義に就いたのは古人にも難しい事である。おおむね宣宗が汴に遷った以上、中都は必ず守れず、中都が守れなければ土崩の勢いは決定的であった。布薩端・耿端義は忠に似て実は愚であり、穆延盡忠は中都を委ねた行いをどう評すべきか。高琪は承暉の成功を忌み、富珠哩徳裕は師期を緩め姦人の党に与した、これがどうして誅されずに済んだであろうか。李英は被酒で軍を敗ったが死してなお贖えぬ罪であった。烏庫哩慶夀が罰を受けなかったことに、貞祐の刑政の乱れが窺える。