金史卷一百一 列傳第三十九 布薩端

段階

  • 中都路の人、事親孝、護衛から太子僕正、滕王府長史などを歴任。承安四年(1199年)薊州秋山での狩猟中の失態で杖罰・解職。泰和年間、御史大夫、尚書左丞、伐宋議論で慎重論を展開(「小さな寇と侮らず、あらかじめ備えるべき」)。行省主留務を担当中に宋の和議申し出(皇甫拱)を報告、布薩揆の暑雨班師を見届けた。
  • 阿里布の妖言・霊験を巡る事件(後宮への納入・祈雨の失敗)に連座したが不問とされた。平章政事・申国公、宋との盟約後右丞相に進む。衞紹王擁立時に元妃李氏らの身柄保護を担当。貞祐二年(1214年)南京留守判官として遷都を進言(河南統軍使長寿・按察転運使王質と共に三度上奏)。
  • 三年(1215年)左丞相・都元帥として陝西行省を担当、諸将の招降(果爾五族・積州将羅雅爾唐・道精族・巴鄂特族の来附)に成功、汪三郎らも完顔姓を賜った。老齢のため慰問を頻繁に受けたが讒言により罷免されなかった。潼関の変事にも責を負わずに済んだ。興定四年(1220年)薨去、延安郡王を追贈、諡忠正、正大三年(1226年)宣宗廟廷に配享。
  • 子納丹珠は定国軍節度使、その子莽噶嘉們が天興初に不祥事に巻き込まれた際、無実の疑いを郭従革・趙楠が命がけで晴らした逸話がある。