金史卷九十八 列傳第三十六 完顔綱

段階

  • 明昌中、奉御から左拾遺、三义口への巴納設置を諫めるも詰問された。刑部員外郎として死罪除名者の移推規定改善を提言。夏国への使者として詔書処理の失態を自ら申告した誠実さがあった。工部郎中、同簽宣徽院事を経て、泰和六年(1206年)蜀漢路安撫使として陝西の対宋防衛に関与、鳳翔・平涼・臨洮などに諸将を配置し防衛網を構築。
  • 呉曦の兄弟や周辺羌族(青伊克)との関係構築に功があり、青伊克の内属を実現。曹佛哩・普賢父子の協力を得て、疊州の副都総管に青伊克を任命する招撫策を成功させた。呉曦の投降交渉にも成功し、その報を受けて右副元帥完顔匡が襄陽先攻の詔を受けることとなった。
  • 陝西宣撫副使として宋の程松・方山原の攻撃を撃退(大霧・暴雨に乗じた奇襲戦)、複数の要害を奪回し、呉曦を蜀国王に封じる韓侂胄への離間策も実行された。呉曦が安丙に殺されると、綱の対応不備が問われ官一階を奪われたが、その後の防戦で名誉を回復。
  • 至寧元年(1213年)縉山での軍事行動を巡り、高琪の功名を尊重すべきとする図克坦鎰の忠告を聞かず大敗、呼沙呼の乱で捕らえられ処刑された。貞祐四年(1216年)子安和の訴えにより名誉回復、尚書左丞を追復された。弟の鼎努は同じく名の知れた将で、布薩揆の伐宋に従軍、河州防禦使、参知政事などを歴任し興定三年(1219年)薨去。

史論

  • 章宗の伐宋の役は三度も主帥を交代したが、これは兵家の忌むところである。宋はこれに乗じて功を挙げられず、韓侂胄・蘇師旦のような人材しか持てなかった。侂胄は心強く智浅く、師旦は謀浅く任は大きく、その首は燕薊南北で悉く「賊臣」と呼ばれた。完顔匡・完顔綱はいずれも泰和の功臣だったが、匡は大安期に志を落とし、綱は至寧期に難に遭った。富貴が人を惑わすことはこれほどのものである。