段階
- 上京路蘇蘇保子明安人、父烏尼音は北京副留守。七歳で女直字を習得、大定四年(1164年)女直字翻訳事業に加わる選抜生の一人として精進、契丹大小字・漢字にも通じた。樞密使完顔思敬が女直人の進士挙参加を建言し、大定九年(1169年)女直進士科第一回試験で鎰は二十七人中及第、両官を授かった。
- 国子助教から中都路教授、翰林待制兼右司員外郎として漢光武中興賦を献上、世宗に「この科を設けねばこの人材は得られなかった」と称賛された。章宗即位後、左諫議大夫兼吏部侍郎、御史中丞、参知政事に至り「人生の欲は限りなく、太平の時にこそ制を慎むべき」と論じた。上書で唐虞の治道を説き、上下の情の通塞を論じた。
- 尚書右丞、横海軍節度使、定武軍節度使、平陽府知事、西京留守、上京留守を歴任し、平章政事・済国公に至る。李淑妃の専寵時の異変(烈風昏曀)について「五常五徳の頽廃」を論じた上疏を提出。為政の急務として「臣下の心を正す」「学者の志を導く」ことを説き、漢高帝と光武帝の優劣論では光武帝を評価する見解を示した(元妃李氏への微諫を含む)。
- 泰和年間、南京留守、河中府知事兼陝西安撫使を歴任、布薩揆の河南陝西行省下で実質的に方面を統轄し、宣撫使(一品)に昇格。急逓舗制度の改革を提言し実現。呉曦死後の宋との交渉に伴う金房方面への出兵を主導、鶻嶺関・上津県などを攻略。
- 大安初め東京留守、遼東安撫副使を経て、至寧・貞祐の危機に際して「彼は聚まりて我は散じて守る」戦略の欠陥を指摘し、大城への集結・昌桓撫三州の内徙を進言したが容れられず、後にこれら三州を失陥し衞紹王が悔いた。至寧元年(1213年)の縉山出兵に慎重論を唱えたが完顔綱は聴かず大敗、呼沙呼の乱の際には翼王(宣宗)擁立を主導した。
- 宣宗即位後、左丞相・広平郡王に至り、南京遷都の議論では「今講和した以上は京師を固守すべき」と反対したが容れられなかった。明敏方正で学問該貫、多くの名士を門下から輩出、『弘道集』六巻を著した。