金史卷九十八 列傳第三十六 完顔匡

段階

  • 始祖九世孫、豳王允成の府教読を務める。大定十九年(1179年)章宗兄弟の教育係に選ばれ、顕宗との対話で「淳謹な人物」と評価された。伯夷叔斉論では玖珠との論争で「正君臣之分」を説き顕宗を感心させた。太子侍読、寝殿として睿宗功徳の歌を作り章宗に教え、世宗を驚かせ大いに喜ばせた逸話がある(宗翰と睿宗の定策・富平の戦勝を詠んだ歌)。
  • 大定二十五年(1185年)礼部策論進士試験で読卷官の見立てに反し落第、二十八年(1188年)詩題の誤記で特に反第を賜った。章宗即位後は近侍局直長から翰林直学士、秘書監、大理少卿、簽書樞密院事を歴任し弼と改名。承安元年(1196年)撫州行院、姫端修の劾奏を退けられ、三年(1198年)尚書左丞。世宗実録編纂に従事、章宗初め提刑司の役割縮小を司空襄・参政揆と共に建言。
  • 撫州行院時の防戦功で三官の昇進を兄への譲与を願い出て嘉されたこと、樞密副使、世襲穆昆を授かる。韓侂胄の宋侵攻計画に対し、宋の敗盟を早くから見抜き、河南宣撫使布薩揆に「輕率な楽観論に対し警戒すべき」と論じた。赫舎哩子仁の報告(宋主に他志なし)に対し帝の問いに巧みに答えた。
  • 泰和六年(1206年)右副元帥として襄陽方面へ出陣、棗陽・光化・随州を攻略。詔で戦功を称えられ、権尚書右丞行省事、右副元帥。呉曦の蜀漢帰附に伴い襄陽先攻を命じられ、穀城県を攻略。布薩揆の病没後は右丞相宗浩の代理を経て左副元帥、平章政事・定国公として総軍を代行。
  • 韓侂胄の和議申し出(王柟の交渉)を主導し、韓侂胄・蘇師旦の首級と引き換えに川陝関隘・淮南地の返還を実現する外交交渉を粘り強く進めた(宋の銭象祖・王柟との詳細な往復書簡)。泰和八年(1208年)四月、宋が韓侂胄・蘇師旦の首を送り、匡は元帥府に献上、章宗はこれを廟社に告げ天下に頒布した。匡は樞密院に戻り進官二階を受けた。
  • 同年十一月章宗崩御に伴い遺詔を受け衞紹王を立てた。匡は策定功を独占しようとし元妃李氏を殺害する事件に関わったとされ、大安元年(1209年)尚書令・申王に至るも同年薨去。顕宗に深く恩遇され章宗の幼時より近侍し将相に至ったが、権勢を恃み官職を賄で得るなど不正も見られ、済南・真定・代州の民田を強奪した事跡があり、宣宗は「蘇色は玉吐鶻を受けて後に官を与えたことがある、これは宰相のすることか」と後に評した。