段階
- 中都路呼喇圖の明安人。徐州録事から樞密院知法、翰林修撰を経て北辺情勢の議論で「天時未利、後図を待つべき」と主張し監察御史を兼ねた。明昌三年(1192年)畿内飢饉に霸州刺史として自ら俸粟を出して救済。堤防修築の功で祠が建てられた。遼東路提刑副使、防禦使、戸部・兵部侍郎を歴任、羣牧人叛乱の招降に功。承安二年(1197年)辺境用兵の慎重論を献策、山東西路転運使として鷹狩の遠征を諫止した。河東南北路按察使として制度改革を提言、泰和二年(1202年)卒官。
史論
- 閻公貞は金の律令を定め、楊伯元は金の推排制度を定め、いずれも公平と称されたことは難事である。焦旭は畿内の小官ながら御史の風指を受けず深い譴責を受けたが、大臣の遊猟を弾劾しその中止を実現させたことは古人の風がある。李完・康元弼には特筆すべき点はないが、李完の台令史論と元弼の曹衞両城論はそれぞれ的を射ている。馬百禄は初め党事で廃されたが晩年に治績を挙げ、劉璣は初め理財で寵を得たが晩年は曲法で罪を得た――人には前後の遭遇の違いがあるが、百禄が福を求めて動じなかったことは劉璣の及ぶところではない。劉珫は大定の擁立に馳せ参じ終身栄寵を得たが、これは時流に乗った士に過ぎない。劉仲洙は剛にして言を納れ、伊喇益は剛にして敢言、益は克寧の北伐を不可としたこと、仲洙は田瑴の党禍三十家を釈放したこと、いずれも『論語』の「剛毅木訥は仁に近し」の言の通りといえよう。