金史卷八十九 列傳第二十七 蘇保衡
段階
- 字は宗尹、雲中天成の人。父京は遼進士で西京留守、宗翰の来攻に降伏、死に際し保衡を宗翰に託した。宗翰の推挙で進士出身を賜り、解州軍事判官などを歴任。天徳年間、中都繕治の工役を張浩の下で督し、大興少尹・工部尚書に至る。海陵の伐宋に際し徐文らと通州で造船、淛東道水軍都統制として舟師を率い臨安へ向かうが、海中で宋軍に敗れ副統制鄭家が戦死した。
- 大定二年(1162年)、山東・臨潢の撫恤を命じられ、倉粟の賑給を行った。刑部・工部・兵部尚書と共に河南・山東・陝西の屯田軍への慰問使を務め、戦功者への恩賞基準を定めた。参知政事、天長観火災の営繕、宋との和議事務を歴任し右丞に進む。宮女の失火による十六位延焼の際、少府監張仲愈を南京へ派遣したことを世宗に「正隆の華侈に倣うと誤解される」と諭され取り止めさせた。大定六年(1166年)病により致仕を願うも許されず、まもなく薨去、享年五十五。世宗は鷹狩を中止し輟朝、祭祀を命じた。