金史卷八十八 列傳第二十六 伊喇道

段階

  • 先祖は伊実部の人、咸平に徙る。篤孝で知られ女直・契丹・漢字に通じた。皇統初、刑部令史から起用され、正隆三年(1158年)咸平路の明安屯戍に従軍。海陵は「道の骨相は他と異なり、いずれ公輔に登るだろう」と評した。海陵の南伐に都督府長史として従軍、海陵死後の混乱で軍が淮南百姓を掠奪した際、自願して来た二百余の男女を保護し淮を渡ってから解放した。
  • 大定二年(1162年)戸部郎中として山東の招諭盗賊を担当、罪を問わず帰業させた。斡罕討伐時、参謀として捕虜を悉く釈放。世宗は「この人物は幹才あり大用に足る」と評した。翰林直学士兼修起居注、清亷な人柄で辺察を歴任。西北路招討使として着任時、諸部の駝馬献上を悉く辞退した。参知政事、南京留守を歴任、致仕を願うも「六十を超えても心力衰えず」と留任させられた。弟の犯罪連座で入内を制限された際も世宗は「何の妨げか」と特に起用を続けさせた。
  • 平章政事に至り、咸平尹として封莘国公、老齢による郷里帰任を許され「咸平は卿の故郷であり事少なく老者に適する」と賜物された。大定二十四年(1184年)薨去、世宗は悼惜し祭祀・恩賞を厚くした。

光祖(字仲礼、幼名巴噶)――段階

  • 廕により閤門祗候に補せられ、平晋令などを歴任。興定二年(1218年)、百官が長久の利を議した際、光祖ら三名は「土人に方面を委ね自ら一方を保たせるべき」と論じ、これが公府封建論の端緒となった(詳細は九公伝)。左宣徽使に転じ、五年(1221年)卒去。

史論

  • 良弼・守道・琚・安礼・道はいずれも正隆期には無名だったが、簒立後の太平の世に至り、明主を補佐し諫言が行われ、恩沢が民に及んだ。これは時運に恵まれたことによる。官序に欠くところなく、上下相安んじ、君はその名を保ち臣はその禄を全うした、まさに盛事といえる。海陵は伊喇道に公輔の器があると知りながら用いなかったため、その治績は大定期に至り初めて現れた。人材の顕晦は世道の盛衰に係るというのは、まさにこの通りである。世宗の代、宮中の宴席で親王・公主・駙馬のみが陪席を許される中、石琚だけが特に召され、諸王以下は密かに軽んじる様子を見せた。世宗はこれを察知し、群臣に「我が父子・家人が今日の安楽を得たのはこの人の力による」と諭し、近事を数十件挙げて示すと皆が俯伏して謝罪した。君臣の相知はこれほどであった。大定末、世宗が元妃を皇后に立てようとした際、石琚は「元妃には既に子がおり、立后すれば東宮が揺らぐ」と諫め、世宗は悟って中止した。人主の家事に臣下が容喙するのは難しいところ、許敬宗の一言が唐の祚をほぼ滅ぼした例を思えば、石琚の諫言は金のために深く謀ったものといえる。