世宗擁立の立役者
- 遼陽の人、貞懿皇后(世宗の母)の弟。先祖代々遼で宰相を務めた家系で、父綽爾齊は高永昌の東京占拠を攻めて戦死した。敦厚寡言ながら器識に優れ、天会二年世襲穆昆・行軍明安を授かり睿宗の右副元帥軍で宗弼に属した。海陵の燕京宮室造営で皇城端門の護衛を務めた際、海陵から「これは葛王(世宗)の舅ではないか」と指摘されたことで海陵の宗室への忌避を察知、興中少尹在任中に病を称して帰郷した。世宗が東京留守として契丹瓜里に備えていた際、東京巡察の任にあった石は、海陵が副留守髙存福に世宗の動静を監視させていることを知り、世宗にまず存福を除いてから事を挙げるよう勧め、これが世宗擁立の端緒となった。大定元年、定策の功で戸部尚書、まもなく参知政事となった。阿蘇が同知中都留守富察薩勒扎を殺し東京へ表を奉じた際、群臣の多くが上京行幸を勧める中、石は「正隆(海陵)は遠く江淮にあり盗賊が蜂起している、万民が東を向いて待つ今こそ中都に直行し腹心の地を制して天下に号令すべき、万世の業となる」と献策し容れられた。石の娘は後宮に入り鄭王永蹈・衛紹王永濟を生み元妃李氏となった。
- 大定三年、俸給支給の不正帳簿問題を告発し、御史大夫として道國公に封ぜられた。京師巡防の強化、府軍銭幣の適正な運用(「軍士貧弱・百姓困乏では、費用がかかろうとも省くわけにいかぬ」)を進言、司徒兼太子太師・御史大夫として贓罪官員の弾劾を厳しく行い、「天下の姦汚が尽きぬ限りは」と語ったという。世宗から「監察は罪を糾すだけでなく善を挙げよ」と諭され、老齢を理由に度々職を戒められたが、太尉尚書令・平原郡王に至り、世宗から「太后の兄弟でそなた一人にこの重責を委ねる」と信任された。人材登用に関する世宗との対話(節度転運副使などの実務経験を経ての昇進の是非)でも慎重な進言を行い、太保致仕・廣平郡王として十六年(1176年)薨じた。世宗は輟朝して自ら哭礼を尽くし厚く弔った。襄簡と諡された。旧史には貧しい頃、姉の貞懿皇后の周済を断り「国家は今人材を急務としている、自ら励むべきで貧を憂うべきでない」と語った逸話や、山東河南の軍民の田地紛争を「兵民に軽重なし、国が拠るのは紀律のみ」と正した治績、北辺の防備をめぐり長城型の深塹策を「徳を以て柔らげるべき、築城は無益」と赫舎哩良弼とともに反対し止めさせた献策が伝わる。世宗の三十年近い治世で尚書令に就いたのは張浩・完顔守道・圖克坦克寧・李石の四人のみであった。明昌五年(1194年)世宗廟庭に配饗された。子は献可・逵可。
- 献可(字は仲和)は大定十年進士に及第、世宗を喜ばせた。戸部員外郎から山東提刑使を歴任し卒し、衛紹王即位後に道國公を追封された。