金史卷八十四 列傳第二十二 昻

弱冠から歴戦した宗室の勇将

  • 景祖の弟伯赫の孫。十五歳で太祖の前で角力に六人続けて勝ち「わが宗弟だ、以後左右を離れるな」と評された。十七歳で伐遼に従軍、燕京平定の功で邸宅を賜った。遼帝追撃の是非を宗翰に諮る使者を務め、宗望の伐宋では汴城攻略の先鋒として夜間の交渉で開城を導き、南京叛乱鎮圧、河南諸路兵馬都統(金牌郎君と称された)として汴州攻略で八穆昆の少兵で万余の敵を撃破した。江南攻略では宋主の逃亡経路を的確に読み(他将の迷いを退けて)、宗輔の陝西平定・宗弼の熙秦経略にも従い河西諸郡(寧洮・安隴・河州・楽州・西寧州)を平定した。東平尹として岳飛の十万軍に対し疑兵を用いて対峙し、大雨の中の夜間撤退で敵の奇襲を未然に防ぐ用兵の妙も見せた(「順流は逃げる者、逆流は誘う者、大雨の泥濘は我らに不利」との判断)。邳州包囲の際は塹壕の弱点を事前に埋めさせる助言で岳飛の奇襲を防いだ。上京路の世襲明安に加え四穆昆を授かるも一部を族兄弟に譲るなど謙譲の心を見せた。樞密使・尚書左丞相・太尉・瀋國公・太保・楚國公・莒衛齊を兼ね樞密太保として海陵の南伐では左領軍大都督を務めたが、渡江の性急さを危ぶみ一時逃亡を図りかけたほど懸念を抱いていた。海陵死後、世宗即位を知ると使者を遣わし賀表を献じ、都元帥・太保として遼陽から睿宗の梓宮遷葬を務め、六十四歳で薨じた。海陵時代は密かに大酒を飲んで数日酔い続ける癖があったが、世宗の代になり酒を断ち「今は明時に遭った、自愛すべきだ」と語り、兄弟仲睦まじく親族の窮乏者には惜しみなく施しを与えたという(人徳の逸話が多く伝わる)。

史論(薩里罕・温都思忠・璸都について)

  • 賛にいう。薩里罕・温都思忠・璸都はいずれも功ある旧臣で、天会・皇統の頃には戦勝攻取に壮んであった。だが海陵の代になると嫌忌の渦に翻弄された。薩里罕自身が言葉で疑いを招きながら大㚖と軍事を争ったのは、危機を見抜く目が遅すぎたのであろう。烏陵阿賛謨は廉直に自ら奮ったのに思忠に死に追いやられた、思忠は海陵に固く結びついたと自負していたが、意見が合わなくなるやすぐに棄てられた、道によらぬ始まりに終わりを全うできる者はいないのである。思忠の最大の罪は賛謨を陥れて殺し、その妻を娶りその財を奪ったこと、これは人を殺してその財を奪うのと何が違うだろうか。応報がその身ではなく子孫に及んだのも遅すぎたと言えよう。正隆末、璸都は三公の位・上将の任にありながら、内には謀に与らず外には戦わず、逼塞して苟安を図った、大臣の道が果たしてこれでよいのだろうか。