海陵に諫言を貫いた老臣
- 太祖の伐遼当時、文字が未整備な中、複雑な軍務伝達を口頭で担った有能な使者で、遼との和議交渉にも従事した。遼の大冊使が「東懐国」と自称するなど非礼な冊文を持参した際、宗翰・宗雄・宗幹・希尹らと文言を正した。伐宋にも従い劉豫の齊国冊立時は傳宣使を務め、宗弼の和尚原攻略後は同知西京留守事、蒲州防禦使を経て、行台の官属が陝西で貧民を奴隷化する事件を摘発し還付させた。行台尚書左丞・右丞・平章政事・郜國公・左丞相兼侍中・沂國公を歴任、貞元二年(1154年)海陵が三品以上官とともに邸宅を訪れ「先朝の旧事を知るのはそなたのみ」と重用した。太傅領三省事・齊國王、太師兼勧農使、尚書令を歴任し封爵制度改革にも関与した。海陵の伐宋を問われた際、大臣がみな沈黙する中「不可」と答え、海陵の「時期だけ答えよ」との圧に「太祖の伐遼でも数年を要した、今は民が怨嗟し師出無名、江淮の暑湿に長く留まれない、十年はかかる」と激しく諫めたが海陵は聞き入れず、「自ら文字も知らなかった時代を経験した老臣だ」と反論し、逆に子の伊德(謙)に問おうとする海陵に「その乳臭い子に何が分かるか」とまで言い放った。海陵が甲仗を中都に集め丁壮を悉く兵とする策にも「山後の契丹諸部は反乱の恐れがある」と反対したが用いられず、後に契丹薩巴・斡罕の反乱が現実となった。正隆六年(1161年)七十三歳で薨じ、海陵は深く悼み厚く弔った。
- 対立関係にあった烏凌阿賛謨(廉直な人物、太祖の伐遼交渉で活躍し、遼の詔書字句を整えた)を、思忠は左丞相秉德誅殺への連座を利用して陥れ殺害し、その妻を娶り財産を奪った。大定十二年(1172年)、世宗は賛謨の官爵を復し「賛謨は忠実剛毅な人物で、思忠との私怨からこれを殺させた、今思忠の子孫がみな不肖であるのはその応報であろう」と評した。
- 子の謙(本名伊德)は御史中丞として世宗に監察制度の粛正を求められ、宮中の放火事件(宮女の恨みによる)を摘発した功があるが、明安の兵の逃亡摘発をめぐる収賄事件で降格処分を受けた。