誣告により族滅した陝西の名将
- 安帝六代の孫、泰州博勒和の一族。宗望の伐宋に従い河間・雄州で李成を撃破、睿宗の山東経略・陝西平定に従い、渭以西・涇原路・熙河の各地を平定した。宗弼が和尚原で敗れた際、上(熙宗)に「薩里罕を褒め、宗弼を戒める」評価を受けるほど戦功を重ね、金州・饒風関で呉玠軍を連破、真符県・洋州・興元府攻略に功があった。天会十四年(1136年)元帥右監軍、天眷三年宗弼の河南再定に伴い涇州・渭州で宋軍を大破、右副元帥・応国公を経て開府儀同三司に至った。熙宗の前で「唐の太子建成は不道であったため太宗が義によりこれを除き、即位後は善政を行い賢と称された、陛下も前主(熙宗自身の先代への婉曲な言及)の失徳を大義で廃絶した以上、善政を行えば唐太宗のようになれる」と進言したことが海陵の逆鱗に触れる伏線となった。海陵は薩里罕が久しく兵権を握り士心を得ていることを忌み、行台左丞相兼左副元帥として表向きは尊崇しつつ実権を奪う策を巡らせ、河南の托卜嘉との軍権争いに乗じてこれを孤立させた。元帥府令史約索が海陵の意を汲んで薩里罕父子と平章宗義・尚書穆里延らの謀反を誣告する偽の契丹小字家書を捏造し、拷問により宗安・宗義らを死に至らしめた(宗安は最後まで自白を拒み、獄死に至る際の毅然とした態度が伝わる)。薩里罕は汴で処刑され一族は誅滅、無関係の関係者(潞王烏哲の孫頁嚕など)も連座して殺された。誣告者約索は同知博州事として存命したが後に蕭裕と謀反し伏誅した。大定初め官爵を復し、三年金源郡王を追封、莊襄と諡され十七年太宗廟庭に配饗された。