伐宋を諫めて処刑された医官
- 江淮の人。宋の医官出身で汴陥落後は金の太医となり中奉大夫太医使に至った。海陵の伐宋に反対を上奏しようとしたが機会を得られず、元妃の診察の折に上疏し、「建国十年足らずで遼宋を平らげた当時は上に武元文烈の君、下に宗翰・宗雄らの謀勇の臣があったが、今の謀臣猛将は当時と異なる。宋は無罪で師出無名、中都造営・南京建設・軍役の重い賦役で民は怨嗟している(人事の不修)、天象にも凶兆がある(天時の不順)、水軍の不備・地形の不利もある」と激烈に諫めた。海陵は激怒し市で処刑、家産を籍没した。婿の綦戩も疑われ杖罰を受けたが、世宗即位後の大定四年、資政大夫を追贈され田宅も還された。章宗即位後、子公史が官に登用され、泰和初め功臣諡議定の際、尚書省掾李秉鈞が「祁宰の忠言による死は高官が誰も一言も進言できなかった中で医卜の身分から出た希有な忠節、諡なきは不当」と上奏し、忠毅と諡された。
史論
- 賛にいう。海陵の君主としてのあり方は異様であった、智を弄んで臣下を制し、それを恤まぬ性であった。君子が朝に仕えるには必ず礼をもってこそ恥を免れる。張通古・耶律安礼はその地位の高低にかかわらず、進退が終始一貫しており賢であった。張浩は事あるごとに従い役に励み続け最も長く宰相を務めたが、その厚遇と薄い処世との落差は自ら招いた面もあろうか。海陵の伐宋に際し、浩と安礼はいずれも大臣の位にあって、一人は婉言で、一人は密諫で対応した、諫めなかったよりは賢である。祁宰はたった一人の医官でありながら極諫を尽くし、後にみな彼の言う通りとなった、海陵がこれを殺したことがかえってその名を百世に成さしめたのである。納哈塔椿年は善き人材を推挙し君子の風があったが、その死は宋侵攻の兵が動く前のこと、産業の蓄財を好んだことを見れば必ずしも身を忘れて国に殉ずる士とは言い切れない。祁宰こそ、まことに卓越して及び難い人物であった。