金史卷八十三 列傳第二十一 納哈塔椿年
海陵に見出された吏才
- 女直字学校創設時、諸部の子弟の中で最も聡敏と評され、京師に送られ頁嚕の教えを受けた。尚書省令史から殿中侍御史・監察御史を経て、海陵の宰相時代に右司員外郎として新制編纂に貢献、簒立後は諫議大夫となった。酒失を海陵に戒められて以来一生禁酒を貫いた逸話が残る。秘書監・翰林学士兼御史中丞・都点検・参知政事を歴任し、海陵から「そなたのような吏材は得難い」と評された。大理丞赫舎哩羅索(後の良弼)を推挙し「果たして君の言う通りの人材だった、賢者は賢者を知る」と海陵に称えられ、羅索は後に世宗代の賢相として名を残した。正隆二年薨じ、海陵自ら哭礼を尽くし特進・譚國公・忠辯と諡し厚く弔った。宰相の才を持ち士人の推挙に長けたが、産業の蓄財にも熱心で西南路の官田八百余頃を冒占していたことが大定年間に発覚し、貧民への再分配が行われたことで世評を落としたという。